2006年度夏学期 EALAIテーマ講義 東アジアのドキュメンタリー映画 個人映像から見える社会

木曜5限(16:20-17:50) 教室:学際交流ホール(アドミニストレーション棟3階)
担当教員:刈間文俊 協力:藤岡朝子(山形国際ドキュメンタリー映画祭コーディネーター)
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

アンケート紹介

2006.5.18(木)「個人的なことは政治的なこと」 ミッキー・チェン/『非婚という名の家』監督、ゲイ・アクティビスト(第二回)

○ アーティストでありアクティビストでもあるという監督は「美麗少年」でうまくその2つを表現したと思う。運動が盛んな台湾でゲイ文化の浸透を大きく後押しした。(1年理Ⅰ)


○ ゲイ・カルチャーの拡大はとてもおもしろい過程をたどっている気がします。部落差別やインドのカーストなどは法律の整備が先に進んでも、社会的に人々に受け入れられるのはかなり後のことというのが定番の流れです。でも同性愛に関しては、インターネットの発達などの影響か、制度の対応がなされる前段階での人々の認知、受け入れが特にここ最近、急速に広まっている気がします。同性愛に対する法制度の焦点は、同性婚についてだと思いますし、実際その通りなのでしょう。(1年文Ⅰ)


○ 児童虐待や家庭内での暴力・殺人が増加して社会問題になっていますが、映画の中であった同性愛者への親族からの圧力もそれに似た一面がある気がします。血縁が心の結びつきにつながっていないことが意外と多いということです。同性愛者あるいは養子などの場合の方がよい関係が結べていることも多いだろうと思います。(1年文Ⅲ)


○ 前回そして今回のミッキー・チェン氏のお話、そして「美麗少年」「非婚という名の家」を観てトータルとして私が感じたことは、「共存」という一言に尽きます。(1年文Ⅱ)


○ 今回見せられたドキュメンタリーから…否応なくゲイの問題の只中に巻き込まれ、マイノリティとマジョリティが境界を生み出す現場としての“日常”が表現されているように思えてならない。アーティストとして、個人としての製作が可能にするものに接することができた。(1年文Ⅲ)


○ 同性愛の運動が「同性婚」を目的とすることを明確に打ち出して以来、硬直化したということを聞いて、これは多くの市民運動にある程度普遍化して言えるのではないかと思いました。政府との妥協点を探る一方で、運動の熱をいかにして維持していくか、これは市民運動の大きなテーマだと思いました。(2年文Ⅰ)


○ ドキュメンタリー映画の監督をしていなければ問題などに深く踏み入ることはなかったというのは今まで考えたことがなく、なるほどと思いました。また、ミッキー監督が1つのことに対して1,2年専念するという発言には少し驚きを感じました。取り組む意欲とある程度楽しむ気持ちがなければ不可能だと思います。そういう風に長い時間と労力をかけて完成した作品が人々の現実理解を助けていると考えると、ドキュメンタリー映画はとても有用なものだと改めて思いました。(1年文Ⅲ)


○ ある特定の文化や規範が作られると、それに参加できない/参加しない人々は排除されてしまうのだろうと思います。現在のグローバル化の流れの中では多様性が認められるのではなく、逆に単一の道徳規範が強力に押し出されることでマイノリティーに対する排除の力がより強力になってしまうのではないかと危惧しております。(2年文Ⅲ)