2006年度夏学期 EALAIテーマ講義 東アジアのドキュメンタリー映画 個人映像から見える社会

木曜5限(16:20-17:50) 教室:学際交流ホール(アドミニストレーション棟3階)
担当教員:刈間文俊 協力:藤岡朝子(山形国際ドキュメンタリー映画祭コーディネーター)
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

アンケート紹介

2006.6.15(木)「中国でインディペンデンスの意味を問う」 クリス・ベリー/英国ロンドン大学ゴールドスミスカレッジ教授(第二回)

 『イン・パブリック』に映された街に、何か1950-60年代の日本の地方都市のような雰囲気を感じた。中央の都市の発展に置き去りにされ、さびれかけている地方都市。それは“郷愁”とは正反対に位置する、さみしい映像だ。(1年文Ⅱ)


 こんな映画もあるんだなあと、単純ですが驚いて見ていました。今までに見たことのないタイプの作品でした。ジャ・ジャンクー監督がこの映画で何を伝えたかったのか、恐らく教授の解説が無ければ理解できなかっただろうと思います。(2年文Ⅰ)


 今回の映画を見た時に非常に違和感を覚えた。被写体がカメラに対して視線をかなり向けていたのに製作者との絡みは全く無いというようなことは、日本人の対応としてはないと思う。そのことが製作者の意図的なものだと聞き、映画の内容以外の製作者の考えなどに興味を覚えた。(1年理Ⅰ)


 セリフが少なめ(というかほとんどない)なのにカメラワークや場所の選定が上手だったので、飽きずに見られた。意図的な演出が弱く、解釈をこちらに任せた感があり、僕が普段見るようなものに近く、中国人と日本人の感覚的相違を全然感じなかった。これは、日中で同系統の手本があるからなのか、どちらかがどちらかの影響を受けたものなのか、それとも映像作品の国民性というもの自体がそもそも無いのか気になった。(2年文Ⅱ)


 公共スペースは古今東西、常に人間が自らの外部に対してメッセージを発する場所なのだと思う。公共スペースでたむろしているということはすなわち、何らかの不満があるということであろう。中国という閉鎖的で規制が多い世の中で、その行動が世間を大きく変えることはまずないと分かっていても、たむろわずにおられない人々の声を大切にしていける世の中になってほしい。(1年文Ⅰ)


 今回描き出されたものは、数々の皮肉が込められたものだったように思う。人々はどこか疲れており、それが政府二体制の掲げるフレーズやイメージ(毛沢東の写真、江沢民の言葉、歌…)と相反する。まさにいままでの政府主導のドキュメンタリーとは違う可能性が見てとれた。(1年文Ⅲ)


 中国で近年生じている変化がどのようなものなのか、映画に限らずテレビなどに関しても説明があり、完全な社会主義から少し緩和された現在の状況へ移行する際の社会的・政治的変容が読み取れて非常にためになりました。(1年文Ⅲ)