2006年度夏学期 EALAIテーマ講義 東アジアのドキュメンタリー映画 個人映像から見える社会

木曜5限(16:20-17:50) 教室:学際交流ホール(アドミニストレーション棟3階)
担当教員:刈間文俊 協力:藤岡朝子(山形国際ドキュメンタリー映画祭コーディネーター)
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

アンケート紹介

2006.6.29(木)「パーソナル・ドキュメンタリー、家族、身体」 ナム・イニョン/韓国ドンソ大学教授(第二回)

 韓国における家父長制の形成に1960年代以降の政治が関係していることを学べたのは幸いだった。また、こうした制度化された伝統の下に「神の声」的ドキュメンタリーが成り立っているという分析も新鮮だった。
 だからこそむしろ、この制度、そしてその内容である儒教的なものの現代社会におけるあり方を考えてみる必要があるのかもしれない。「女」はこうした文化圏において「非-男」としてしか捉えられなかったのだろうか? 差別があったとはいえ、その形式は西洋社会と違うものではなかっただろうか? これを分析していく中で、現代の個人の問題も浮かび上がると思う。(1年文Ⅲ)


 現在、日本の父親の権威が失われてきたと言われるのは、彼らの多くが「高度成長期」に思春期を迎えたことと関係していると思います。彼らが思春期を迎えたとき、彼らの父親は「企業戦士」として働き、ほとんど家にはいませんでした。結果的に家庭内では母親が父親の代役も果たすようになりました。そうした環境で育った人々が父親となったとき、かつてのような抑圧的な家父長制を貫徹するとはあまり考えられません。ただ、注意しなくてはならないのは、父親の権威の減少は必ずしも母親の権威の上昇を意味しないということです。日本でもいまだに母親は父親に対して経済的に従属させられています。父親による精神的、身体的抑圧がなくなっても、経済的な抑圧は残存しています。これは社会構造全体の問題として考えていくべきだと思います。(2年文Ⅲ)


 日本では、現在の石原人気のように、“古きよき父親像”の復権をはかろうとする反動的な風潮も見られます。家父長制が常にセクシズムをはらんでいること、またそのセクシズムによって“女性”の役割をおしつけられた人々だけでなく全ての人々が抑圧されるのだということを、今一度認識し直す必要があると感じています。(2年文Ⅰ)


 「家族プロジェクト」で話題となった家父長制度について、私は家父長制度自体には反対だが、父親が家族の精神的支柱となるというケースもあるのではないかと思う。家族内で父親が重い存在として扱われなくなってきた、いてもいなくても同じだ、という現状があるとの指摘はあるが、私個人の実感としては父親がいるのといないのとでは、安心感が全然違うと思う。これは前時代的な考え方と言われてしまうのだろうか。でも父親にはやはり存在としての重みがあると感じる。(1年文Ⅲ)


 家父長制について考えたことですが、伝統的な制度や因習が長く続いていた時代では「家」というものには様々な役割があったのだと思います。それは例えば、金銭的なものや教育的なもの、和みや楽しみといった慰安的、娯楽的なものです。でも今の時代ではそれらの多くのものは「家」の中だけ収まるものではなく、社会の中で相補でき、さらには完全に「社会」の中に属するものがあるのだと思います。今の時代「家」の中に残されているのは愛情的な役割だけで、それが父親という一家の大黒柱的な存在を必ずしも必要としなく、民主的な家族関係にうつりかわったのではないかと思いました。(1年理Ⅱ)


 パーソナルドキュメンタリーでは個人がただその個人を表現するためだけでなく、社会をとらえるためのフィルターの役割として用いられる、という話が、この前のフィルムを思い出してもああそうだなあと感じた。(1年文Ⅰ)


 女性のみの登場人物、つまり女性中心の視点から捉えられたドキュメンタリーというものが今迄なぜ登場して来なかったのかが不思議なくらいである。(1年文Ⅰ)