2006年度夏学期 EALAIテーマ講義 東アジアのドキュメンタリー映画 個人映像から見える社会

木曜5限(16:20-17:50) 教室:学際交流ホール(アドミニストレーション棟3階)
担当教員:刈間文俊 協力:藤岡朝子(山形国際ドキュメンタリー映画祭コーディネーター)
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

アンケート紹介

2006.7.18(火)「アーカイヴを使った社会批評」 佐藤真/『阿賀に生きる』『Out of Place』監督

 アーカイブという表現もありなんだ、と別に言われてみると不思議でもなんでもないことだけれど、今まで見なれていないので、すごく新鮮だった。表現ってものの可能性ってやっぱり広い。おもしろい。(1年理Ⅰ)


 政府や組織が広報のために使用していた映像が、アーカイブ・ドキュメンタリーの中ではまた違った顔を見せる、というのが大変印象深かった。映像というのは元々どのような受け取り方もできる多義的なものだと思うが、そう考えると、広報のために利用される映像がいかにその多義性を隠されているかが分かる。映像に付けられる強烈なメッセージによって、その映像の意味するものが一つに決められてしまうのだろう。アーカイブ・ドキュメンタリーという形で、映像を再検討し、そこに隠された意味を再発見する必要があるのだろうな、と感じた。(1年文Ⅲ)


 今回は講義中心で映像に対する問題、特に著作権について考えるきっかけになった。ドキュメンタリーはリアリティーを追求して現実問題にコミットするもの、という固定観念があったが、アーカイブドキュメンタリーなるものが存在するなどドキュメンタリーもさまざまな手法があり得るということは発見だった。(2年文Ⅲ)


 過去の映像を再検討するというアーカイヴ・ドキュメンタリーという存在を初めて知った。ドキュメンタリーの性格としてどうこうというよりも、例えば2つの異なる素材を組み合わせた『忘れないで!』は映像作品としてとても面白い。パソコンなどの機器が身近になり、誰でも簡単に映像が編集できる時代になり、ほとんどゲリラ的に作られた映像に、ドキュメンタリーの新たな地平を見た気がした。(1年文Ⅲ)


 こういったタイプのアーカイブドキュメンタリーは今もそうかもしれないが、今後インターネットを媒介に日本でも広がっていくのではないだろうか。(1年理Ⅰ)


 ドキュメンタリーは世界を批評的に映し出す鏡である、という言葉に強い印象を覚えた。また、アーカイブ・ドキュメンタリーという手法も興味深く思えた。一つ一つは独立していて説得力ありげな話だが、並べ合わせて見直すと、逆に当時の現実をアイロニカルに表してしまう不思議さが、ドキュメンタリーというものの本質をそのまま示していると思う。ドキュメンタリーとは本質的に時代と人の記憶なのかもしれない。(1年文Ⅲ)


 日本において「徴兵制」や「日本軍」は現在存在しない。虐殺の映像はほとんど見たことがなかったため、かなり衝撃的だった。様々なドキュメンタリーを見てきたが、現実に対しては「ドキュメンタリー」という枠だけでも本当に多様なアプローチがあることを思い知らされた。
 「部分引用」の話が最後に出たが、「映像」が存在する限り完全に解決されることは無いと思う。ただ、自分としては、「作る側」は何か目的を持ち、映像を選択するのは当然であるため、その恣意性を「見る側」が心に留めておくことが最も重要ではないかと思う。(1年文Ⅰ)