2006年度夏学期 EALAIテーマ講義 東アジアのドキュメンタリー映画 個人映像から見える社会

木曜5限(16:20-17:50) 教室:学際交流ホール(アドミニストレーション棟3階)
担当教員:刈間文俊 協力:藤岡朝子(山形国際ドキュメンタリー映画祭コーディネーター)
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

アンケート紹介

2006.4.27(木)「ベトナムと中国:社会主義国にドキュメンタリーは可能か」 刈間文俊教授

○ 共産党独裁政権下の社会主義国において、映画はプロパガンダの手段として重要な意味を持つ。反体制的な作品は上映を許されず、人々はプロパガンダ映画にしか触れることができない。「お前たちが作るのは嘘八百の映画ばかり」という工場主の言葉は、こうした状況下で、社会主義の矛盾に気付きはじめた民衆の、映画に対する、ひいては体制に対する不審の表れであるのだろう。ここにおいて、プロパガンダはもはや本来の意味を果たしてはいないのである。社会主義がほころびを見せ、崩壊してゆく様の一端を垣間見たようで、印象深いシーンであった。
(文Ⅱ1年)


○ ベトナム映画については、ドイモイ政策の実施などで経済的な発展を遂げることとなる国において「思いやり」という人間の優れた精神が衰退していると人々が実感していたことが分かりました。経済的・物質的豊かさの向上と同時に心が貧しくなるという現象も起こるという意見は陳腐とも言えるほど頻繁に聞きますが、それは日本に限らず世界全体について当てはまるのだと思いました。
(文Ⅲ1年)


○ 「思いやりの話」は、何を伝えようとしているのか、いまいちよく分からなかった。このドキュメンタリー映画は、ベトナムの背景とどのように関係しているのかということがはっきり表れていないように思う。
(文Ⅲ1年)


○ 「思いやりの話」の監督が描きたかったのはなんだろうか? なるほどそれは「思いやり」ではある。同時にそれは、自己に対する痛烈な批判でもあったのではないか? 自分を三人称的に語り、車で移動する自分と大きな荷物を運んで歩く自分とを対比させる、こうした一連の描写は、映像というリアルなものを通じて自分自身に強く訴えるものだったのではないだろうか?
(文Ⅲ1年)


○ 今回見たドキュメンタリー映画では、ある意味で究極の思いやりを実行しようとした社会主義が結局は成功せず、人々の生活を悪化させ、結果として思いやりの心が失われてしまったことを皮肉っているようにも見てとれた。しかし、市場経済の導入によって、思いやりの心がよみがえったかというとそうでもなく、貧困層と富裕層との格差が広がり、それぞれの生活の実情を知ることができないという現状があるように思われた。
(文Ⅲ1年)