2006年度夏学期 EALAIテーマ講義 東アジアのドキュメンタリー映画 個人映像から見える社会

木曜5限(16:20-17:50) 教室:学際交流ホール(アドミニストレーション棟3階)
担当教員:刈間文俊 協力:藤岡朝子(山形国際ドキュメンタリー映画祭コーディネーター)
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

アンケート紹介

2006.7.10(月)「いま記録しなくては消えてしまう」 鄢雨(イェン・ユィ)/『水没の前に』共同監督

傍観者として映画を撮る。先週の森さんの作品と実に対照的で、興味深く思いました。(2年文Ⅰ)


中国のインディペンデント映画は、個人が自発的にというより、「そういうスタイル」として、存在しているのだと感じた。他国のドキュメンタリーと比べ「カメラを撮る人」ではなくカメラ自身が一人称化(0人称化?)している。それにしても二重帳簿の話をカメラの前でして良いのだろうか(笑)。(2年文Ⅱ)


今記録しなければ消えてしまうものを記録する。そんなドキュメンタリー映画には、ある種の切迫感があると感じた。映画に記録されている風景がもう今は存在しないということが分かっているから、そう感じられるのだろう。今回見た「水没の前に」では、作り手の存在を感じさせないような撮影手法がとられていたが、そのような映画は果たして作者の主観が入っていると言えるのだろうか。おそらく、主観は入っていると言えるだろう。そもそも作り手の主観の入らない映画は存在しないのではないだろうか。(1年文Ⅲ)


価値のあるドキュメンタリーを撮るには人に心を開いてもらったり、場に作者の存在がなじんだりするための時間が必要なんだと感じた。(2年文Ⅰ)


全くインタビューが入らないということで、監督たちが本当に第三者的な視点で撮影を進めているのかと私は思ったが、逆にコミュニケーションをとったり自らを開いたりしたからこそあのスタンスで撮れるのだと聞いてなるほどと思った。教会の話の続きを見たいなと思う。(1年文Ⅱ)


以前講義で扱ったテーマ、中国のインディペンデント・ドキュメンタリーを実際に見れてとても面白かったです。この間の講義でディスカッションした中国インディペンデント映画の様々な問題は改めて確認したが、それらの問題に対する中国政府、あるいは中国人インディペンデント監督自身は何かの対策を行なっているのでしょうか。(1年文Ⅲ)


去りゆくもの、変わってゆくものをドキュメンタリーという形で残すこと、それもインディペンデンスとして記録することの重要性を感じたように思う。たとい三峡に限らないでも、あらゆる場面でそうした記録の仕方がこれからますます求められてくるのかもしれない、時代が、町並みが、人間性が、変わっていく限りは。(1年文Ⅲ)


三峡ダム、世界最大級、絶大な経済効果…。と華々しい噂とイメージが共行しているが、実際はそうでもないという話は耳にしたことがあります。多くの住民が強制的に立ちのきを迫られていること、治水力、発電力が事業の規模に見合わないこと、多くの史跡が水没すること等々、マイナス面もかなり大きいみたいである。個人的には白帝城が水没してしまうということが非常に惜しく思われる。だが、日本に住んでいるからこそ史跡に目を向ける余裕があるのだろう。周辺住民の立場にすると、この上なく大変なことだというのは想像に難くない。中国政府、インディペンデンス、と言うと、ウイグル人のことも連想される。国家権力のもとに一切の反論もできず苦しむ人々のことを考えると、インディペンデント系ドキュメンタリーによって巻き起こされる風が大きな力となって政治を動かし得るものとなってほしいと切に願います。(1年文Ⅰ)