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朝鮮の事に限らずここで考えさせられるのは、いかに現在我々が偏った情報に依存しているかという事である。ニュースに関してもそう。報道が発達して情報が多様だと思われる日本だが、逆に発達した報道がそうした偏見を堅固にしている様に思われる。こうした状況に何らかの打開策を与え得るという意味でドキュメンタリー映画の役割は大きいと思う。(1年文Ⅰ)
ヤン・ヨンヒさんはTV報道にもたずさわっているという話でしたが、北朝鮮があそこまで悪者扱いで報道されていることに、上からの操作があるのではないかと思うのですが、そういった話は現場の人とはしないのですか?
このドキュメンタリーをつくるにあたって、なにか制約があったら教えてほしい。
「メディアが伝えきれない」というか「メディアは伝えようとしてない」のではないか、と思ったし、メディアが人々に与える影響を自覚してほしい。(2年文Ⅲ)
よく言われるアメリカのメディア報道の仕方についての問題だけでなく、日本のメディアの北朝鮮に関する問題に触れられていて、その事についてはとても同感である。メディアが多角化しているといっても尚、テレビ局がテレビだけでなく、新聞雑誌などでも支配的であるという事や、視聴率を極度に重視せざるを得ないシステムであるという事が問題である。しかし本質的にはそれを受けとる側の質に問題があるのではないか? 自分も含め、多くの人が今日本が抱える大問題についてほとんど確かな知識もなく、知識がない人に受け入れられる北朝鮮を悪の権化と言わんばかりの報道によるイメージのみが植えつけられていく。この問題を解決するにはやはり受けとる側が当事者意識を持つしかないのではないか。自分のイメージする北朝鮮人と実際の彼らの生活とのギャップを見てみたいので、是非本編を見に行こうと思う。(1年理Ⅰ)
日本で今でも在日朝鮮人に対する差別は多いですか?身近にそういった差別がおこったのを見たことがないんですが、それは鈍感だったんでしょうか?(1年文Ⅲ)
いわゆる「帰国事業」があったこと知っていたが、その背景に北の経済成長と南の不安定があったという事実は知らなかった。確かに世界史の知識として韓国の政権が不安定だったことは知っていたが、それ以上に北朝鮮は貧しい国というイメージが強く、なぜ北へ渡ったのかが理解できなかったのだ。これも結局は、日本の報道にイメージを固定されていたということなのか、と無自覚のうちにそうなっていたことに驚いた。(1年文Ⅱ)
在日コリアンについて詳しく聞いたことがなかった。もっと知りたいと思った。(1年文Ⅲ)
北朝鮮の拉致も許しがたい国家犯罪であることは確かですが、その原因をたどれば日本の侵略を語らないわけにはいかないと思います。マスメディア報道はその点から逃げているようにしか思えません。日本の強制連行という国家犯罪も究明の対象となるべきだと思います。(2年文Ⅰ)
朝鮮半島がいまだ冷戦構造の中にあり、そしてその根本を作り出したのが日本であるという事実を抜いたまま、「北朝鮮=拉致」という図式を流布させているメディアに対して非常に強い不信感があります。ピョンヤン宣言で両国が互いに自らの国家犯罪を認めたとき、そこから国家暴力について思考し人々が国家を超えて連帯できる日が来るのではないかと期待しました。しかし結果的には65年と同じような経済援助型の戦後補償に終わり、拉致だけが前面に押し出される事態となってしまいました。こうした日本のメディア状況に絶望しながらも、しかし何とか現状を変えていきたいと思っています。そのためにはまず、「拉致」でくくられる北朝鮮の表象を脱さなければならないのでしょうね。映画見に行きます!(2年文Ⅲ)
キム・ドンウォン監督のドキュメンタリーで感じたことと同じことを再び感じた。個人としての側面と、政治的・社会的な側面をむやみに混同してはならない、ということだ。監督の父が「朝鮮人以外と結婚するな」といいつつも「娘が大きくなってくれたことがそれだけでうれしい」ともらしたことはその象徴だろう。個人を個人の魅力にほれこんで撮るという方針も考えさせられた。あえて政治的・社会的な部分でその人を切り取らないことが、あるいは誰もがマイノリティであることを認めることが、やはり重要なのだろう。(1年文Ⅲ)
今回もオヤジがおもしろかった。アジアの主役はオヤジなのかもしれない。(2年文Ⅱ)
映像を見ている時には、何がみせられていて何がみせられていないのか、その映像の裏側に作り手のどういう意図があるのかを意識していく必要があるように感じました。ヤンさんの映画の続きを見たいと思います。(2年文Ⅰ)
ドキュメンタリーはありのままを撮る、だから特別な装置や役者たちがいらない。カメラだけで十分なので製作が楽で、作者のやる気だけでいいのかと思っていた。しかし、モザイクをつけるのかつけないのかが、身内の命にかかわるほどの重要なこととなる世界があると知った時、ドキュメンタリーの重さをつくづく感じた。(文Ⅰ)