最初に見た映画では、写っているのはほとんどぬいぐるみだけなのに、主人公が今どのような気持ちなのかが彼女の言葉を通してすごくストレートに伝わってきた。観客が作り手の視点に立って、作者と同化して、理不尽さを感じることを意図しているようにも感じた。(2年/文Ⅰ)
「夫婦の役割」を性差によって規定しようとする風潮は現在の日本でも批判的に論じられることが多いですが、今日の映画ではそれがより表面的になっていると思います。タイトルが「父の家」であるように、家父長制という装置が“家族”のあり方にどういった影響を及ぼしているかという点が表現されていたように思います。
オモニに対する抑圧だけでなく、アボジに対する抑圧も表れていたと思います。アボジ自身も、「あるべき父親像」を植えつけられ、混乱していたように思いました。ある夫婦の個別的な映像ではありましたが、社会や制度全体に関わる問題を感じました。(2年/文Ⅰ)
核家族化の原因は“つかれ”かもしれない。家族といえども、しょせん他人で、しかも大勢になればなるほどわずらわしさが生まれてくる。それでもいっしょにいたいと思えなくなった時、家庭は崩壊をはじめるのだろう。まずは世代の違う親から子供夫婦が離れ、核家族化がすすむ。自立する前の子が親から離れるなんてことは不可能かもしれないが、子供が自分の家に寄りつかなくなる確率もゼロとは言えない。夫が家を出るのはもっとあり得るだろう。これを防ぐのは一朝一夕に答えの出る問題ではない。一人一人が他者を思いやるしかないのかもしれない。(1年/文Ⅰ)
昔の日本の典型的夫婦だと思った。夫は家庭をかえりみず、仕事にあけくれる。妻は家庭につかれて夫にぐちるが、夫は家族のためにやっていると答える。夫と妻の認識のミゾの深さ、夫は妻のことをあまり知らないだろうし、妻も夫のことを知らない。そのような日本にありがちな様子が韓国にもあると思うと親近感がわく。今の日本ではこんな夫婦は熟年離婚だろうな。韓国に熟年離婚はあるのだろうか。(1年/文Ⅱ)
“10年後、働けなくなったら俺は俺でなくなる”という父親の言葉がとても印象的でした。日本でもかつては父親が絶対的な存在だったけれど、今では変わっています。なぜ日本は変化し、韓国では父親の権威を守り抜こうとするのでしょうか。それは儒教が背景になっているのでは、と思いましたが、作品中の祖母と父親の会話の中に“教会”がでてきました。彼らはキリスト教徒なのでしょうか。(1年/文Ⅲ)
家族などを撮った映像がドキュメンタリーと呼べるかということは考えたこともなかったのですが、改めて、この分野の映像について話を聞くとわかった時点で少しそれについては疑問に思いました。しかし実際には話を聞いたり映画を見たりして、やはりそれも1つのドキュメンタリー映像であって、見るのは決して無駄ではなく、よいことだと思いました。当然作ることも重要だと思います。家族という小さな集団を見ることで社会の構造や価値観、あるいはそういったものに対する世代間のとらえ方の違いなどを知ることができるからです。講義の中でこういった分野の映像に対する人々の考え方の変化などが分かってよかったです。(1年/文Ⅲ)
「家族プロジェクト」に、時代の流れと伝統的家族制度の対立を見た。儒教をテーマにレポートを作成したことがあるが、そこで感じたのは、役割の中で幸福を追求する姿だった。今の個人主義的風潮からすれば抑圧に見えるかもしれないが、それも一つの家族のありかただと思う。むしろ、描かれていた家族の中では、それがゆがんだ形で現れたように思う。旧来の制度を否定するに留まらず、新たな形を見出せないだろうか?(1年/文Ⅲ)
大きな視点から社会を捉え、問題などを浮かび上がらせるドキュメンタリーの方法はある種科学的であり、personalなドキュメンタリーから社会的意味を探るというのは芸術的と言えると思う。1970年代以降韓国でpersonal documentaryが広がっていった原因のひとつには芸術的思想の普及があるのではないか?(1年/理Ⅰ)
最近、社会進出する女性の増える勢いというのはすごいものがあると思う。その急速な変化に対して、僕は、「ちょっとやりすぎじゃないか」という考えも少しは持っていた。伝統的な価値観によって女性がこれほどまでに苦しんでいるという声を聞けて、考えが少し改まった。(1年/理Ⅰ)
父親が男らしさにこだわるというような事に疑問を感じたことがなかった。知らず知らずのうちに自分自身もそのような男は男らしく女は女らしくという考えにとらわれていると気づいた。(1年/理Ⅱ)