2006年度夏学期 EALAIテーマ講義 東アジアのドキュメンタリー映画 個人映像から見える社会

木曜5限(16:20-17:50) 教室:学際交流ホール(アドミニストレーション棟3階)
担当教員:刈間文俊 協力:藤岡朝子(山形国際ドキュメンタリー映画祭コーディネーター)
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

アンケート紹介

2006.6. 8(木)「中国でインディペンデンスの意味を問う」 クリス・ベリー/英国ロンドン大学ゴールドスミスカレッジ教授(第一回)

 “インディペンデンス”というと、レジュメにもあるようについ「権力からの独立」という認識をしてしまいがちですが、中国ドキュメンタリーにおける“インディペンデンス”がそうした二項対立をも乗りこえる可能性を持っていることがわかりました。社会主義国の状況は文献で目にすることはありますが、なかなか実感されることは難しいように思います。『広場』に映っていたレポーターの様子が予定調和の番組というものをよく示していて、中国の状況の一端を見ることができました。その一方で、呉文光監督の作品は今まで創造もしなかった中国の生活を示していて、衝撃を受けました。(2年文Ⅰ)


 まず単純に中国の“インディペンデンス”がこんなに短期間で発展したということに驚いた。1990年代のテレビ番組がまさかあのようなものだとは想像しなかった。そしてそこからの開放スピード、進歩スピードのあまりの速さにもものすごいパワーを感じる。(1年文Ⅱ)


 全ての人民が国家の体制の中に位置づけられるという状況というのは、不満というものもあったと思うが、ある種安定していたと思う。その意味ではそこからの独立を目指すというのは重要だったのだろうが、大きなエネルギーが必要だったと思う。時代の文脈から考えれば、反体制の運動は必然であったかもしれないが、そうした独立を目指す運動の先駆となった製作者の功績はやはり大きいと感じた。(1年文Ⅰ)


 ドキュメンタリーを通じて“自由”というものに不慣れな人民たちが“表現”というものを覚え、社会に対して大いに発信していくようになるといいと思う。(1年文Ⅰ)


 ドキュメンタリーには記録と芸術の二つの側面があると思うが、今回のものは記録の側面が強いものだった。自分で見るものではなく、人に自分の意思を伝えるものとしての映像は、たとえ解釈の多様化それ自体が目的であっても、最低限の芸術的加工は求められてしかるべきだと思う。(2年文Ⅱ)


 『流浪北京』で半狂乱に陥っている女性を見て、天安門事件の影響、すなわち中国の自由化が経済的なものだけで、表現も含めた政治的な自由化が否定されたことが、政治的自由を求める人々に及ぼした計り知れないショックというものを垣間見た気がした。(1年文Ⅱ)


 途中で見た映画について。画家の女性が色々さけんでいたが、正直何が伝えたいのかイマイチよく分からなかった。(1年文Ⅰ)


 中国でここ十数年のドキュメンタリーがかくもそれ以前と違うとは知らなかった。その違いを『広場』が象徴しているとベリー教授は言っていたが、まさにその通りだと思う。体制の真っ只中でインディペンデンスの方向を歩むということ、あるいは天安門広場こそインディペンデンスのドキュメンタリーが初めて生まれてくる場所だということを考えさせられた。(1年文Ⅲ)


 国家の統制のもと、施政者が望む映像は撮るのも見るのも退屈だと思う。2回ほど前に、作られたドキュメンタリー映画を見た時はやられたと思うと同時に、思想統制、情報操作に使われたら恐いと思った。中国では昔とはいえ、そのような施政者の都合で作られたドキュメンタリーが多かったのは、戦時中の日本でのことも含め、時代点社会の圧迫だったんだろうと思った。(1年文Ⅱ)


 初期の中国ドキュメンタリー映画は、他の旧社会主義国のドキュメンタリー映画にとても似ている。旧社会主義国から来た私は共産党の宣伝に満ちたドキュメンタリーを少し見たことがある。しかしその後どうやって発展したかを気にはしなかった。中国のように芸術家を中心にしてドキュメンタリー映画はインディペンデントになったのか、よくわからないが、今回の講義を聞いて自国のドキュメンタリーと中国のドキュメンタリーの比較について興味を持った。(1年文Ⅲ)

<質問 - これらは第二回目の授業で取り上げられる予定です>


権力に逆らって、自分の安定な生活を犠牲にして新しいものをつくり出そうとする活力はどこから生まれてくるのだろうか。(1年理Ⅱ)
Where does the energy to create something new come from, even to the extent of sacrificing one’s own stable life?


中国のドキュメンタリーが製作され始めた当初、興行的には成功したんでしょうか?中国映画の歴史的には革命的なことだったのかもしれないが、一般人のレベルでは受け入れられたのですか?(1年文Ⅲ)
Were the early Chinese documentaries successful in the box office? These films may have been revolutionary in terms of Chinese cinema history, but how were they received by the ordinary people?


中国の地方の農村の現状などは、日本で普通に暮らしているとほとんど知ることができないが、その現状を描いたドキュメンタリーはどれくらい撮られているのか、疑問に思った。(2年文Ⅰ)
We living ordinary lives in Japan have virtually no way of learning about the reality of Chinese villages in the countryside. Are there documentaries made about these situations?


中国の映像の変化から社会の変化が見られるという事だが、変化する以前の状態をよく私は知らないので、そのあたりを次週に期待したい。(1年文Ⅰ)
You mention that we can reflect on the changes of Chinese society from the changes seen in cinema, but I’d like to hear more on this topic as I don’t know much how it was before change.


『流浪北京:最後の夢想家たち』に関して質問があります。このフィルムが国家の枠組みから外れた新しい生き方を提示しているという説明を講義でされていたと思いますが、ならばタイトルに『最後の』と入っているのは、どのような意味があるのでしょうか。(2年文Ⅰ)
“Bumming in Beijing” apparently presented a new lifestyle outside of the state framework, but what does the second title “The Last Dreamers” mean?


改革開放路線の中で国家の権力構造自体が変容したと思うのですが、それに伴って「インディペンデンス」の中身も変容したのでしょうか。『流浪北京』で見られたような「規律型権力」からの素朴な離脱から、対抗文化であったりさらにはオルタナティブな権力構造を構築するような動きへと変わったりはしたのでしょうか。(2年文Ⅲ)
With the changes in power structures within the state, with the opening up and reform policies, did the meaning to “independence” change as well? Did it change from a simple depart from “disciplinary authority” as seen in “Bumming in Beijing” to a counter culture movement or one constructing an alternative power structure?


恥ずかしながらフーコーの主張をよく知らないので、なぜ権力が抑圧的・否定的であると同時に、生産的であるのか、もうひとつよくわからなかった。検閲制度の穴から、つまり全く権力側から予想だにつかなかった存在がドキュメンタリー映画ならば、確かにドキュメンタリーの生まれる可能性が大いにあるのは理解できるが、生産的という意味をもっと詳しく知りたい。(1年文Ⅲ)
Embarrassingly, I don’t know Foucault’s theories very well, and so couldn’t understand why power could be repressive and negative but also productive. If we say documentary was something completely unpredictable to the censorship system and fell through its gaps, it is understandable that its birth could mean possibilities, but I’d like to hear more about the idea of productivity.


中国の政治的な自由化は未だ進んでおらず、そのような不満は去年の反日デモのように対外的な不満へ転化されている一面もあると思うが、インターネットの普及が進むなかで、現在の中国の芸術家たちがどのような主張を、どのように発せようとしているのかは非常に興味深い。(1年文Ⅱ)
Since political liberation in China is not yet advanced, I can see how frustration could be transported to anger to foreign countries like the anti-Japan demonstrations last year. In that environment, and one with advanced internet usage, I am very curious what kind of ideas contemporary Chinese artists emit and how.