2006年度夏学期 EALAIテーマ講義 東アジアのドキュメンタリー映画 個人映像から見える社会

木曜5限(16:20-17:50) 教室:学際交流ホール(アドミニストレーション棟3階)
担当教員:刈間文俊 協力:藤岡朝子(山形国際ドキュメンタリー映画祭コーディネーター)
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

アンケート紹介

2006.4.13(木)イントロダクション 『送還日記』

 長期囚の人々は、(拷問を加えた)最低の人間には屈服することなどできない、ということを言っていたが、転向工作を行っていた人々を最低の人間にまでしてしまったのは知らないものへの恐怖だったのではないかと思う。38度線で隔てられた南と北は、恐怖心を覚えてしまう程、互いのことをよく知らなかったのだろう。何か得体の知れないスパイへの恐怖をかきたてるような報道やテレビ番組、このようなものが一番恐ろしいと私は思う。
(1年文Ⅲ)


 印象付けられたのは、「個人」の顔と「集団」の顔、2つを併せ持つ非転向長期囚の姿である。一方では純真で誠実な「おじいさん」であり、他方では「古い理念と体制を盲信する」老人である。私たちは普通、後者にしか己の眼差しを向けない。個人によるドキュメンタリーが映したもう一つの顔に気付くことができた。これが、本来のドキュメンタリーの「世界を変える」可能性ではなかろうか。
(1年文Ⅲ)


 「国家保安法」という国家の保安をうたった法律が実際には個人の思想抑圧につながり、ひいては表現の自由を奪い身体を拘束していることに嫌悪を覚えました。個人の保安を奪うことで得られる「国家の保安」に意義はあるのか、再考するいい題材になりました。共産主義思想の良し悪しを国家が決定するべきでも、その議論をする機会を奪うべきでもないのだということを、強く実感しました。
(1年文Ⅰ)


 朝鮮半島の国家に、さらには民族に分断を持ち込んだのは他ならぬ日本である。東アジアという固有の文脈の中で、国家の暴力性を捉え、批判することは転向政策も含め、さらには日本の戦争責任にまで思想を及ぼさずにはいられないであろう。
(2年文Ⅲ)


 知らないことだらけだった。工作員、スパイといった単語は日本のニュースでも出てくるのでなじみがあったが、韓国・北朝鮮間の見えない戦争や転向といった話についてはまったく無知だった。当局のむごいリンチ、転向といった単語は遠藤周作の『沈黙』を思い出させた。思想という見えないものを巡る闘いは、少し怖いと思った。私には彼らほどの強い思想がないから、どうしたらよいのか分からなくなったのだ。
(2年文Ⅲ)


 私は今日まで、恐らく今後もかなり平和に生きているので、強い政治思想を持ったこともないし、今も持っていません。だから、30年も拘束される原因が政治思想にある、という事実、それがつい最近までの出来事であるという事実に驚かされます。
(文Ⅰ)


 南北問題を、とても複雑で、自分には全くわかることができるはずもないことであると思っていましたが、少しただ普通の人と人とのけんかのように思えました。
(1年理Ⅰ)