2006年度夏学期 EALAIテーマ講義 東アジアのドキュメンタリー映画 個人映像から見える社会

木曜5限(16:20-17:50) 教室:学際交流ホール(アドミニストレーション棟3階)
担当教員:刈間文俊 協力:藤岡朝子(山形国際ドキュメンタリー映画祭コーディネーター)
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

アンケート紹介

2006.7. 6(木)「ペンのようなビデオ」 森達也/『A』『A2』監督


「撮るという行為そのものが現実を変える」という森さんの言葉が非常に印象的でした。(2年文Ⅲ)


森監督の作品では、『A2』をBOX東中野にて鑑賞したことがある。高校一年生の時だったので、かなり衝撃的に感じられた。あれ以来、テレビを見てもなんだかもはや信用できなくなってしまった。実は森監督のテレビ作品は見たことがないので、今回「放送禁止歌」を見ることができてよかった。(インターネットなどで噂には聞いていたので。)事実は1つだけれど真実は人の数だけあるという話、ともするとドキュメンタリーを真実そのものとしてとらえてしまいそうになる私は、気をつけなければならないと思った。物事を多面的に見る必要性をドキュメンタリーは教えてくれているのだろう。思考停止におちいらないこと、ちょっとでも考えることを心がけたいと思った。(2年文Ⅲ)


…民放連の要注意歌謡曲指定制度の「これは基準でしかない」とする態度は卑怯なものではないかと思いました。森さんの指摘するように製作者側の思考の停止も問題視すべきだと思いますが、一方で基準のみを示す民放連の態度も非常に無責任であると思います。中身が空虚な規制ほど、批判されることもなく強力にはたらいてしまうのかなと思いました。(2年文Ⅰ)


ちょうど記号論でテレビをテーマに取り扱い、しかもちょうど北朝鮮のミサイル問題が取り沙汰されていたため、メディアを改めて考えるよいきっかけになった。危機をあおれば戦争に向かわせられるというゲーリングの言葉は、いまでもその重要性を失っていない。テレビが絶えず情勢を伝え、私たちがそれを空気として受け止めていく中で、いつのまにか危機をあおられていないだろうか?ニュースはテレビでは伝えられるものというよりも生み出されているものなのかもしれない。(1年文Ⅲ)


「放送禁止歌」の中では、規制の主体をひたすらに追求する様子が見られた。これを見て思ったのは、規制の主体は非常に臆病な存在なのだな、ということだった。批判されるのが怖いから、その対象となりそうなものは批判される前に規制する。当たり障りのないものだけを放送する。規制する人々は放送禁止歌を聞いた人々に悪影響を与えることを恐れているというよりは自分達にふりかかる非難を恐れている、という感じがした。(1年文Ⅲ)


 僕は関西出身であり、昔から部落差別について多くの学ぶ機会がありました。その学習では、どこの地域が部落であるのかとか、現在その地域ではどのような職業が多く存在しているのか、また昔起こった部落差別の事件を学ぶものであった。他の地方の人よりも明らかに部落差別について学ぶ機会が多かったにも関わらず、放送禁止歌などの存在も知らなかった。現在行われている教育をするよりも、この映画のように、具体的なある例について深く掘り下げていく方が部落差別について深く考えることができるようになるのではないかと思った。(1年理Ⅰ)


 ドキュメンタリー映画で、撮る側の人間の主観が伝わることが重要だという意見が印象的でした。カメラで撮るという行為は、そのままの事実を伝えることがもうその時点でできなくなって、後は見た側が真実を探さなくてはならない。しかし私は、ドキュメンタリー映画にある種の事実を求めていた部分もあり、また多くの人もそうだと思う。大切なのは、映像は全て誰かしらの手を経て、届けられているものだと認識し、何を伝えたいのかを読み取ることが必要だと実感しました。(1年文Ⅲ)


 テレビというメディアは圧倒的な影響力を多くの人々に対して持っているが、そうであるが故に扱う人々には高い意識が必要なのだと感じた。音楽の放送規制に関しても、強制力もない‘基準’に放送局が判断力を放棄して盲従する事には首肯しかねる。(1年文Ⅰ)