2006年度夏学期 EALAIテーマ講義 東アジアのドキュメンタリー映画 個人映像から見える社会

木曜5限(16:20-17:50) 教室:学際交流ホール(アドミニストレーション棟3階)
担当教員:刈間文俊 協力:藤岡朝子(山形国際ドキュメンタリー映画祭コーディネーター)
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

アンケート紹介

2006.4.20(木)「韓国ドキュメンタリーの復権」 キム・ドンウォン監督

 今までドキュメンタリー映画は事実を客観的に映すものだと考えていたが、その考えを改めさせられた。ドキュメンタリー映画はそれを撮る人の主観が大いに入り込むもので、一つの意見の表明なのだということを知った。
(1年文Ⅲ)


竹島問題についても具体的に話され、多くの日本人・韓国人のもつ意見を認めつつ、監督はそこに多面的な捉え方が必要であることを指摘された。自ら問題に積極的に関わり、普通では見えて来ない側面を見出そうという態度が大切なのだと考えさせられた講義であった。
(1年文Ⅰ)


 竹島の問題でも明らかなように、日韓関係が緊迫すれば、マスコミは韓国の人々の反日的なコメントを多く、また象徴的に報道する。実はこれはほんの一面で、もっと冷静な考えを持っている人も少なくないはずなのに……。ネットを通じて見る限り、同じ傾向は韓国のマスコミにも見られるようだ。マスコミが公平中立の皮をかぶってこのような報道をするなかで、同じジャーナリズムに携わる立場にある方として、「ドキュメンタリーを作る人は思想的に中立でなければならないのではない」とはっきり言われた監督の潔さ(?)が印象的でした。
(1年文Ⅱ)


 法律家をめざす者として「豊かに暮らすとはどういうことか」考えていきたいと思いました。その時、「弱者」の視点を忘れないよう心がけようと思いました。
(2年文Ⅰ)


 キム監督の作品には、不当な扱いや辛い目にあっても自尊心を失わない、自尊心をより強くもつ、人間の強さが描かれていると感じた。ドキュメンタリーは事実や状況を伝えるニュースのようなものというイメージを抱いていたが、作者の一つの視点を提示することで、受け手に考えさせることが目的なのかなと思った。
(2年文Ⅰ)


 サンゲェ洞オリンピックの貧民街撤去の映像なのだが、民主主義の2面性を具現しているのではないか。自由と資本主義を唱えながら、遅れているもの、貧しいものを容赦なく虐げる。その場にいた監督は右から左へ移るきっかけとなったとおっしゃったが、北のような社会主義を認められないにしても民主主義の矛盾を強く感じたからだろうか? またブルドーザーで家屋を破壊する様子がイラクへのアメリカ“侵略”と重なって見えた。世界の縮図として「サンゲェ洞オリンピック」をとらえることができるとお考えだろうか? 
(2年文Ⅲ)


 監督の言う「ドキュメンタリーが世の中を変える」という言葉の意味が分かってよかった。確かに観客である私の中で何かが変わった。朝鮮半島に対する見方とか、興味の対象も変わった。けれど依然として、映画というジャンルにおけるドキュメンタリーの占める割合のせまさを考えると、テレビで放映した方がよいのではないかと思ってしまう。日本で成功しているドキュメンタリー映画が少ないこともあって私はこう考えてしまうのかもしれないが、ドキュメンタリー映画の興行的な側面についても話を聞きたかった。
(2年文Ⅲ)


 ドキュメンタリーは何かを知るためのきっかけになるものだと思った。
(2年文Ⅰ)


 民衆と国家の激しい対立を経験した韓国社会では、ドキュメンタリー映画が抵抗の一拠点となっているのだなと感じました。同時に、音楽や映画が商業的に消費されてしまっている日本文化の貧しさも思い知らされたような気がします。
(2年文Ⅲ)


キム監督のやわらかな話し方が印象に残りました。
(1年理Ⅰ)