2006年度夏学期 EALAI/ASNETテーマ講義 アジアから考える世界史

金曜日5限(16:20-17:50) 教室:7号館741 担当教員:羽田正
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

アンケート紹介

2006.7.14(金)世界史はどう書かれるべきか

日本国内で明治以降戦乱がなくなったのは、欧米に植民地化されるかもしれないという脅威があったからだと思う。世界から戦乱がなくなるためには、世界全体に対する脅威(極端な話、宇宙人とか)が必要かもしれないとも思った。(文Ⅰ・1年)


歴史の持つ過去の正当化機能には、国のみならず、過去からつながって出てくる自分という存在の正当化という意味もあるように思う。(文Ⅰ・1年)


国民国家が歴史教育に影響力を有する現状では、世界を一単位とした世界史の構築は支持を得られないと考える。日本などはすでに歴史教育によって国民国家を維持する必要性がないので、一国史偏重を排除した方がよいという考えには同意できる。しかし、主権国家体制を基礎とする現行の政治体制が強固である限り、歴史教育(歴史学とは異なる)が世界単位になることはかなり困難であろう。(文Ⅰ・1年)


ワールドカップを例に通信・交通の発達を示すことで世界の一体化が現実に進んでいると言われたが、そのワールドカップで一番意識されているのは国家という単位である。先生の言わんとする世界を単位とする世界史の重要性とは裏腹に、一般的認識として国家を単位とし、自分の属する国の範囲までで物事の広がりを限定する考えがうまく根付いているのだと思う。パラダイムシフトは非常に難しいと思うが、これからに期待したい。(文Ⅰ・1年)


国民国家を成立させるための歴史は必ずしも成功したとは言えない気がする。自分は東北出身なのだが、いろんな場面で関東や関西から馬鹿にされていると感じる。そうすると、こっちも向こうに敵意を持つようになる。他の東北人がどう考えているか知らないが、自分は正直なところかなり憤っている。このような歪みがどのくらいあるかわからないけれど、無理やり一体化させようとするのもまずいと思う。(文Ⅱ・1年)


一国史や限定された枠組みの中での歴史が役割を終えることはないのではないだろうか。というのは、人間は自分が何者であるかと言うことについて、他者とは異なるアイデンティティを必要とするように思われるからだ。(文Ⅱ・1年)


日本や中国、韓国、イランなどでは歴史教育(教科書)に国が程度の差こそあれ介入していることがわかったが、他の国(西欧など)ではどうなっているのか。自由に教科書が選ばれる国はないのか。(文Ⅱ・1年)


自分は自分の故郷の地域史に疎い。祖父母から聞いた断片的知識しか持っていないのは残念だ。遺跡や城址、祭りや地名などの知識を少しでも多く持てていけたら、地元の過疎化も止まるかもしれないと希望を抱いている。知識を得ると言うのは、その対象に近づくことにつながると思う。だから、近しいところから、同心円状に広げるのも一つのあり方だろう。根を張ること自体が必ずしも正しいこととは限らないのだろうが、世界の視点からの歴史と、もう一つ自分の視点から見た歴史との両方を共存させていけたら良いのではないか。自分の地面を認識しつつ、相手の立つ地も推し測るために。(文Ⅲ・1年)


歴史は何のためにあるのか、という問いについて深く考えた。私自身は、「正しい歴史」を求める中で、様々な歴史的立場が存在することを一般的に知らせ、その立場の違いを許容することが目的の一つではないかと思う。「世界」の歴史を書く上で、ある種妥協的なものを作るのではなく、際限のない量、際限のない多様性を見せなくては、やはり主観のみになってしまう。世界を一つにする歴史は、ともすれば弱い国、小さな人々を捨象するものとなる。しかし、理想に向けて進まねばならない。そう思う。ジョン・レノンのImagineの歌詞を思い出した。(文Ⅲ・1年)


他国の人々の歴史や歴史認識を知ることができるような世界史を考える必要があると思う。例えば、現在、アメリカがさまざまな国にちょっかいを出して「アメリカの民主主義」を正しいものとして広げようとしているように思えるが、このような行動も他国の歴史・歴史認識を知らずにいることに一因があるように思える。(文Ⅲ・1年)