2006年度夏学期 EALAI/ASNETテーマ講義 アジアから考える世界史

金曜日5限(16:20-17:50) 教室:7号館741 担当教員:羽田正
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

アンケート紹介

2006.5.19(金)東アジアと日本の「近世化」と「近代化」

アジアから見る世界史ということで、他国がどのように歴史を捉えているかに興味があったが、日本がどのように世界を捉えてきたのかや、アジアのなかでの日本の立場をしることも興味深いと思った。(文Ⅲ・2年)

日本が発展したことによって近代化論に関心がなくなっていったということを聞いて危ないなと思った。歴史には多くの教訓が含まれており、それをないがしろにすることは同じ過ちを繰り返すことになりかねないと思う。(文Ⅰ・1年)

世界各地で近代化が多様に進められていくことが興味深い。アジアの近代化の爪痕は、現代の問題にもつながっているように思う。(文Ⅰ・1年)

歴史とは単なる事実の羅列ではなく、過去の重要と思われる出来事を後世の研究者が現状の問題の対処に役立てるために、意義を見出し、研究し、諸出来事間の結びつきを捉えることだと理解した。 (文Ⅰ・1年)

近代化の前に価値ある近世があるという考え方はASEANの成功にも適用できると思う。国民国家となってほどなない東南アジア諸国が、EUのように影響力のある存在となりえた要因として、大航海時代からの東南アジア地域の一体的な経済活動が挙げられるのではないか。(文Ⅰ・1年)

今の日本、東アジアの姿は、近世化・近代化を通じて、様々な要因が複雑に絡み合って形成されたものだとわかった。(文Ⅱ・1年)

先生に「アジアに日本が含まれるか?」と問われて、そもそもアジアとはどこからどこまでの地域を指すのか、一体いつから「アジア」という後が使い始められたのかなど、様々な疑問が湧いてきた。(文Ⅲ・1年)

確かに複数の「近世」と単一の「近代」という発想は理解できた。しかし、明治日本の近代化の中に、儒教的な理想を認める指摘ができるならば、「近代」の単一性に矛盾するとも思った。「近代」は一つだが、「近代化」は複数あったということなのだろうか。その場合、「近代」は一種の理想像として明治の日本のなかで認識されたのであろうか。(文Ⅲ・1年)

受験日本史をやっていたせいか、近世と近代を分けて考える姿勢でいたけれど、その連続性という視点を与えてもらえて有意義だった。(文Ⅲ・1年)

歴史はいつも現在を正当化するために使われているみたいで、それを鵜呑みにするのはよくないと思う。日本の近代化は資本主義の成功のモデルとして今でも華々しく語られているが、今から何百年も経てばまた解釈が変わるかもしれない。(文Ⅲ・1年)

私は日本の近代化が全面的に外発的なものであり、外国との接触なしには成立しなかったのだろうかと疑問に思っていましたが、今日の講義で「複数の『近世』と一つの『近代』の複合(・・)」というフレーズに出会い、なるほどと納得しました。(文Ⅲ・1年)