2006年度夏学期 EALAI/ASNETテーマ講義 アジアから考える世界史

金曜日5限(16:20-17:50) 教室:7号館741 担当教員:羽田正
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

アンケート紹介

2006.7. 7(金)Indonesian Regional Music in New Medium

海外の音楽を聴いても全く耳にしたことのない斬新な旋律というのはない気がする。人間が快いと感じるリズムとかメロディは国ごとでそんなに差がないのか、メディアの影響で意識はしていなくてもどこかで耳にしたことがあるためなじみがあるのか。もしくは、伝統音楽でさえキーボード一つで弾けるようになるなど、音楽の均質化が進んでいるからなのだろうか。(文Ⅲ・2年)


VCDの音楽にはなぜだか親しみ易さや郷愁のようなものを感じた。それはVCDの音楽が純粋な民族音楽に西洋的な音楽要素を取り入れているからなのか。それとも、そもそもインドネシアの民族音楽に、日本人にも共通する「アジア的」とでも呼ぶべき要素が存在するからなのか。(文Ⅰ・1年)


民族音楽に西洋の要素が入っていることに関して、インドネシアの人々はどのような認識を抱いているのか。当たり前のこととして受け入れられているのか。それとも憂慮すべきことと思われているのか。(文Ⅰ・1年)


national musicに外国風のものしかないというのは悲しい問題だと思った。(文Ⅰ・1年)


性に関して厳しそうなイスラム教圏なのに、VCDにはセクシュアルな映像もあったことが興味深かった。アラブ圏と比べるとイスラム教の到来が遅かったので、現代文化とイスラムが同じくらいの重さしか持っていないということなのだろうか。(文Ⅱ・1年)


映像や音楽を通じて考えたのは、民族ごとに特有の文化・価値観が存在するということで、それを踏まえれば、一つの歴史的事実でも、それを歴史として語る時、民族ごとに大きく異なってしまうということも必然的であるように思えた。(文Ⅱ・1年)


regionalな音楽はそれぞれの地域だけのもの、ということは、インドネシアというのは全体でほぼ統一された文化圏というわけではなく、むしろ地域ごとにかなり異なる文化が形成されていて、それらはあまりつながっていないということになるのだろうか。その場合、インドネシアの人々は地域を超えた国民意識のようなもの、「インドネシア人である」というような意識は持っているのだろうか。また、それがあるとすれば何を基盤とするものなのだろうか。(文Ⅱ・1年)


日本では、regionalな音楽は阿波踊りみたいなものが当てはまるのかもしれない。しかし、日本の場合、そのような音楽は全国的に共有されている、あるいは少なくとも知られていると思う。インドネシアではregionalな音楽は全国的に知られてすらいないのだろうか。(文Ⅲ・1年)


オランダ統治時代のregionalな音楽の扱われ方について興味を抱いた。(文Ⅲ・1年)


音楽は地域の言語、文化を反映する。日本の音楽はジャンルを超えても使われている言語や楽器は同じようなものだ。それに対し、インドネシアでは地域ごとにregional musicが存在し、使われる言語、楽器も違う。インドネシアの言語や文化の多様性を反映しているようだ。しかし、VCDの映像が、本当に地元住民に根付いた音楽を示していると言えるのだろうか。(文Ⅲ・1年)


インドネシアでVCDを再生する機械はどの程度普及しているのか。映像を見ることのできる人が限られているかどうかに留意する必要がある。(文Ⅲ・1年)


reginal musicにはその地域・地方のアイデンティティを示すようなもの、例えば、その地域の言葉、服装、楽器、地理が使われているが、歌詞はどのようなものなのか。伝統的な音楽と聞くと、その地域の神話や伝説が語られるイメージを持つが、インドネシアの場合はどうなのか。(文Ⅲ・1年)


地域的・民族的な音楽とポップミュージックの融合やVCDの発達には、多くの民族の民族性が全国的に認知されるという利点とともに、地域内の一体性が強くなりすぎて地方的なナショナリズムの高揚とそれによる国内情勢の悪化にもつながりかねないという懸念があるのではないか。(文Ⅲ・1年)


この先、インドネシアでVCDに代わるメディアが登場したとき、今日見たような動きにどのような変化が生じるのか興味深い。(文Ⅲ・1年)


VCDがインドネシアで普及することが、インドネシアの歴史観にどのような影響を与えるのだろうか。(文Ⅲ・1年)