2006年度夏学期 EALAI/ASNETテーマ講義 アジアから考える世界史

金曜日5限(16:20-17:50) 教室:7号館741 担当教員:羽田正
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

アンケート紹介

2006.4.21(金)19世紀ヨーロッパにおける近代歴史学の成立とその世界への普及

近代の歴史学は国民国家建設の動きに呼応する形だけで生み出されたのだろうか?他の要素もあるのだろうか?(文Ⅰ・1年)

西欧が進んでいて、他の地域が遅れているという意識は自分にもある気がする。この考えが本当に正しいかは考えてみる必要があると思う。(文Ⅰ・1年)

歴史が国民国家建設のために利用されたというのに興味を持った。利害と結びつかない学問はなかなかないのかなぁと思う。(文Ⅰ・1年)
                                
歴史には愛国心、プライド、国の伝統など様々なものが入り込んでくるし、文化圏が違えば事実の見方も違うので、やはり統一はほぼ不可能なのだろう。しかし、そこを客観的に見ていくよう努力するしかないし、そのためにこの授業で学んでいきたい。(文Ⅱ・1年)
                              
「歴史」というのは、政治的意図によってかかれることもあり、書きようによっては、どんな歴史にもなってしまうのではないかと思いました。ただ、起こったことを書き並べていくのも歴史であるし、そこにどんな意味づけをしていくかでだいぶ違ってくるのだと思いました。歴史を書くのは人であるから、主観を含まない、ありのままの本当の歴史を知ることは難しいのかもしれないと思います。(文Ⅲ・1年)

あるがままの歴史なんて存在しないならば、いかに書くかというのが重要なのだろうか…?歴史学の意味に思いをいたすと、なかなかアタマが痛くなる。(文Ⅲ・1年)

ヨーロッパでは、イスラム世界の文化を不変だと思っていたというのに驚きました。イスラムから技術を取り入れたりもしていただろうに、彼らの文化を正しく評価できなかったんですね。それと、アジアの歴史や文化にはまったく目が向けられていないなとも感じました。(文Ⅲ・1年)

「あるがまま」の事実を伝えられるだけといわれても、その国に対する私の印象はかなり固く決められる気がします。現代の国につなげて書かれるからこそなのですね。(文Ⅲ・1年)

進歩として捉えるなら「あるがまま」になんて捉えられないと思いますが、矛盾しないのですか?(文Ⅲ・1年)

現在、東洋や日本の歴史というものについて、ヨーロッパ人はどのように考えているのかを知りたいと思った。(文Ⅲ・1年)

中世ヨーロッパ人と次のような会話をしたとするとどうであろうか。A:中世の人、B:現代の人。
B「君は地球が平だと思い込んでいるようだが、地球は丸いんだ。」
A「あなたはどこでそれを確かめたのですか?」
B「宇宙から見た写真が本に載っているさ」
A「じゃ、あなたは自分の目で確かめたのではないのですね。なら私も同じです。聖書に「地球は平らだ」と書かれています。」
B「……」
僕らは歴史を常に真実として学校で習ってきた。文献を疑い、自分の頭で捉えなおす大切さを痛感する。(文Ⅲ・1年)