2006年度夏学期 EALAI/ASNETテーマ講義 アジアから考える世界史

金曜日5限(16:20-17:50) 教室:7号館741 担当教員:羽田正
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

アンケート紹介

2006.5.12(金)近代中国における「新史学」

歴史が自国中心になるとしても、それが正しいとは限らないと認識すればいいと思う。
(1年・文I)

中国の近代史で、中国史の特徴だと思っていた「中華思想」が登場せず、むしろ西洋の歴史学を移入していたことは意外だった。(1年・文I)

ナショナリズム高揚の為に「歴史」を学ぶことが必要である。しかし過去の事跡だけを教えても仕方がなく、現在の急務を行いつつ歴史を認識し、理想を追い求めなければならないという梁啓超の強い意志に興味を持ち感動した。(1年・文I)

「人種」に関する梁啓超の意見にはあまり賛成できないが、ある程度は正しいのだろう。なぜならば、歴史が知られるためにはそれが何らかの形で記録される必要があり、そのためには人々が集団としてまとまり、彼等の歴史を記録する方法を生み出さなければならないからだ。実際そういったことに成功した人種の歴史が多く学ばれ、彼等がまるで歴史の中心であるように感じさせられる。 (1年・文Ⅱ)

梁啓超は「中国には王朝史があるが中国史がない」と指摘したが、歴代王朝の勢力版図からもわかるように、一定の「中国」というものはないように思う。「国家史」という概念の発達の過程をしりたい。(1年・文Ⅲ)

梁啓超のいう「団結」がナショナルヒストリーを支えているのだと思う。しかし、その「団結」という言葉はとても曖昧なものであり、複雑だと思う。各国の団結の過程を明らかにしていくことに興味を感じる。(1年・文Ⅲ)

現在人種に関わる問題は様々あるが、歴史を逆のぼっても人種という概念はあり、分類する主体によってもそれはかなり変わってくる。歴史を振り返ってみることが今日の問題を考える上で重要だということに改めて気付かされ、これは他のことにも応用すべきだと感じた。(2年・文Ⅲ)