2006年度夏学期 EALAI/ASNETテーマ講義 アジアから考える世界史

金曜日5限(16:20-17:50) 教室:7号館741 担当教員:羽田正
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

アンケート紹介

2006.6. 9(金)History writing by South Asian intellectuals in an age of colonial modernity

植民地支配者が、植民地を未開・野蛮だというように表現するのは典型的なことのような気がした。日本は以前の自国の植民地に対して、どのような歴史教育を行っていたのだろうか。また、現在のインドの国民が植民地時代の歴史教育についてどのように理解し、それに対してどう考えているのか知りたいと思う。日本と中国や韓国の間では歴史教育に関する問題がしばしば大きく取り上げられているが、イギリスとインドの間にもこれと同様の問題はないのか。(文Ⅲ・2年)


日本の高校の歴史教育でも、今回の講義でも、ヴァルダナ朝が倒れてからガズナ朝が侵入するまでの時期が扱われないのはどうしてか。(文Ⅰ・1年)


どの国の歴史の捉え方にも共通しているものとして、自らの時代を賞賛するために、その直前の時代を否定し、自国の他国に対する優位性を主張するために二つ前の時代を肯定する、ということが考えられる。植民地支配下のインドの歴史理解はまさにこの傾向を有していると思う。(文Ⅰ・1年)


今回の講義を聞いて、歴史が支配や民族意識育成のために利用された事例に触れ、歴史を書く意図についさらに深く考える機会を得ることができた。このことが、今回の講義で強調された点なのだと理解した。(文Ⅰ・1年)


歴史を支配や民族意識高揚のための道具として扱えば、その歴史は絶対に一面的なものになってしまうだろうから、第2次世界大戦後に女性・下位カーストや地域の歴史など、それまで無視されてきた歴史を明らかにしようとする試みが現れたことは、多面的に歴史を見る契機になると思う。(文Ⅰ・1年)


詩や神話、また小説などの芸術の形で表現されたものも歴史の理解に一定の役割を果たす一方で、そられのものが原因で事実と異なった歴史認識、そして政治的対立が生じてしまうことは留意すべきと感じた。ある歴史記述がどのような背景・意図のもとでなされたのかを認識しないと、気づかないうちに一定の見方に凝り固まってしまう危険も感じた。(文Ⅰ・1年)


日本と中国や韓国では、歴史教科書の見解の違いでもめることがあるが、インドではイギリスの植民地時代のことはどう書かれているのか。(文Ⅲ・1年)


インドの歴史教科書で、パキスタンやネパールについては触れられてすらいないというのはショッキングだった。歴史というものは、主観を完全に排除することは不可能であるし、その必要もないのであるが、自国に都合の悪い情報を提供しない歴史などというものは、余りに恣意的であるといわざるをえまい。(文Ⅲ・1年)


「インド史」と総称するものは一体何なのか。南アジア地域の歴史であったり、デリーを中心とする「帝国」の歴史であったりするかもしれない。しかし、近年盛んになっている「ヒンドゥー・ナショナリズム」が気になる。インドとはなにか。ナショナリズムでは何を「インド」とし、何を排除しようとしているのか。歴史が大いに政治的に歪められる事実に直面しているような気がする。(文Ⅲ・1年)