2006年度夏学期 EALAI/ASNETテーマ講義 アジアから考える世界史

金曜日5限(16:20-17:50) 教室:7号館741 担当教員:羽田正
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

アンケート紹介

2006.6.30(金)Historian and History Writing : Case of Modern Southeast Asia

歴史学者の研究が単なる年代考証になるべきではないということには共感した。論文や書面上だけの研究では明らかにならないものが、現地の人と交流することによって明らかになることもあると思う。(文Ⅰ・1年)


今回のような話を聞くと学校で学ぶような歴史には意味がないのかとも思ってしまうが、確かにsuggestionとしては必要なのだろう。生の歴史を体験することは容易ではないのだから。(文Ⅱ・1年)


ビデオの中で、オランダ人とは違い、インドネシアの人々や中国系の人々は苦しい顔をして笑顔を見せなかったことがとても印象的だった。(文Ⅱ・1年)


祖父母に昔のことを聞くことで、自分がどのように歴史とかかわっているか分かるというのが、とても面白く感じた。素直に自分も歴史の一部になれるのだなと思った。(文Ⅲ・1年)


歴史において言語のカテゴリーが重要であることはわかった。ただし、もし、世界共通の世界史を想定した場合、世界的な言語の多様性を乗り越えて、どこまで世界史が成立しうるのか疑問だ。(文Ⅲ・1年)


先生は現地の生活に密着して東南アジアの歴史の研究をなさろうとしていると理解したが、歴史にはミクロの視点だけでなく、マクロな視点も必要ではないだろうか。今回の講義を先生がどのようにマクロに位置づけられるのかを知りたい。(文Ⅲ・1年)


歴史を考える際にchronology、mapに固執するのはよくないと聞いて新鮮だった。特に高校時代の歴史の授業では、ほとんどchronologyとmapが中心であったことが思い出される。(文Ⅲ・1年)


書かれた歴史は長く残るが死んでいる。口頭での伝承は改変の可能性が高いが生きている。今まで歴史というと書かれた歴史しか頭になかった。(文Ⅲ・1年)


先生は東南アジアはchronologyではないとおっしゃるが、それは他の地域にはあてはまらないことなのだろうか。(文Ⅲ・1年)