2006年度夏学期 EALAI/ASNETテーマ講義 アジアから考える世界史

金曜日5限(16:20-17:50) 教室:7号館741 担当教員:羽田正
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

アンケート紹介

2006.4.14(金)高校教育における日本史と世界史

今回の講義で一番興味深かったのは、「世界史」という言葉についてだ。国によって、歴史教科書の内容が変わる理由は正にこの言葉の捉えられ方にある。教科書を作成する歴史家達が、自国のために都合のいい人を作るという政治的意図を持っていようがいないが、世界史をどう捉えるかによって内容が偏ってくる。「世界共通の教科書」というのを作成できれば、国同士の対立や誤解というものも減っていくと思う。(文I・1年)

日本と諸外国の歴史教育の手法の違いは、それぞれの国の人々の世界観をどれほど異ならせているのだろう。その違いは、「何を目的に歴史をおしえるか」という点についての意識の違いからくるものの様な気がする。だとすると、歴史教育は何を目的とするべきなのだろう。(文Ⅱ・1年)

歴史家が「世界史」を編む際の取捨選択があるならば歴史家一人一人について「世界史」が存在する。とすれば、国家という大きなグループで考えればより大きな隔たりがあるのは当然だと言える。現在を見るためのレンズ、あるいはフライングフィッシングとして歴史を捉えれば、その歴史の認識が異なれば現代に対する認識は必然的に異なってくる。日中、あるいは日韓、独仏などの例の上からそこに必要なのは相互理解なのか妥協なのか考えたいと思った。歴史教育の目的は、単に歴史的事実やそれを通じた現代的視点や思想を教えることではなく、国家意識の形成、言い過ぎではあるが主権国家維持や国威発揚という意味合いを受け継いでいるのではないかと思った。表層的に他国史を教えるということが他国の理解につながっていくのか、ということが知りたい。(文Ⅲ・1年)

「歴史」は常に現在の社会の動きや考え方を反映し、新たな解釈や捉え方が生じるから飽きないが、「歴史」が都合よく解釈されがちである現在の状況になんらかの不安を覚える。世界史も日本史もほぼ学習している日本は、自国史中心に勉強する国からすればある意味で「歴史マニア」のレッテルを貼られそうな感じだが、自国史を世界の中に位置付けることは大事じゃないかと思う。歴史教育そのものにおける各国の温度差が今の日・中・韓のみならず、関係が不安定な国々の間に横たわる本質の一種かもしれない。(文Ⅲ・1年)

専門家が大切だと思ったことを整理した歴史を今まで当然の歴史として受け取っていたが、実際には叙述仕切れなかった事柄や、歴史認識の違いがあることに気づかされ、考えさせられた。そういった意味で各地の歴史観を理解することが、その文化を理解するのには重要だと思った。歴史が早い時期から教えられるのは、歴史を学ぶことにより今の我々の立場が認識でき、あらゆる学問に対する基礎が作れるからだと考える。(文Ⅲ・1年)

今日の講義を聴いて、日本を知るためには日本から見た歴史を学ぶだけでなく、世界から見た歴史を知る必要があると感じた。アメリカから見たアメリカ、中国から見た中国、そして日本から見たアメリカ・中国という風に見ていかなくては日本の「歴史」の捉え方は分からないと思う。もしかしたら私が知っている「歴史」と友人たちの知っている「歴史」が違うのかもしれないと思えてきた。何のために歴史を教えているのかよく分からないが、一部の人々に都合のいい愛国心を植え付けるためということもあるので、日本から見た日本史・世界史から抜け出した視点を持ち、自分の頭で歴史を考えたい。(文Ⅲ・1年)

他国史を教えるのは日本ぐらいだと聞き、国際化の時代ということも考えると、非常に価値のあるものかもしれないと思い直した。各国間の世界史の特殊性はどうしてもethnocentricになってしまうからで、 客観的でないのはやむを得ないと思う。むしろ特殊な各国の世界史というものを思い描くことが望ましいのではないか。それから、歴史教育の理想(学習指導要領)と現実の教育に関してそれほど大きな較差があるとは思わない。暗記しないと歴史は学べないと思うし、大学入試があるからこそ、幅広い歴史認識を半強制的に学べるのだと思う。だから、ただ暗記することが、理想と離れているとは言えない。
(理I ・1年)