2006年度夏学期 EALAI/ASNETテーマ講義 アジアから考える世界史

金曜日5限(16:20-17:50) 教室:7号館741 担当教員:羽田正
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

アンケート紹介

2006.7.11(火)東南アジアにおける植民地支配と歴史認識

最後の教科書の内容に関する解釈がとても興味深く感じた。アチェの言葉でアチェの生活を表せる限り、アチェは無くならない、という教科書の締めくくりは、人間、言葉、民族、物語等のテーマを含む言葉に聞こえ、おもしろく感じた。(文Ⅰ・1年)


一方的な「近代教育」に基づく植民地教育と「共鳴しあう」経験に基づくアチェの独立後の教科書の違いがそのまま両者の価値観の対立の現れとなっているが、どちらがよいかははっきりと断言できない。けれど、我々が現在教育で忘れている体験の大切さや「近代」への無批判さを独立後のテキストから認識させられた。独立後のテキストが植民時代の「知」の否定になっていないことを願う。(文Ⅲ・1年)


教科書の変化を追っていたが、2冊で比較というのは少ない気がする。教科書はアチェにはわずかしかなかったのだろうか。(文Ⅰ・1年)


歴史記述の「行と行の間で消えてしまったものに思いをはせる」、「近代の歴史記述ではどんなふうに切り落とされてきたのかを見る」と聞いたときは、抽象的で難しいなと思った。しかし教科書を丁寧に分析していく中で、子どもの時には気づかないような意図というか、目標のようなものがフーコーの話もまじえて説明されて、とても興味を引かれた。文章を分析的に読んで、どう学問的に説明するか、という流れが見えた気がした。それまで人々が持っていた生活体験・慣習を否定してまで、パワーを持つ側は何を上書きしたかったのだろうか、と納得のいかない思いが残った。(文Ⅰ・1年)


アチェの植民地時代の教科書と独立後の教科書を読むという貴重な体験ができて、とても興味深かった。だが、少なくとも文字面を見る限りにおいては、内容的にもあまり変わらないことに驚いた。(文Ⅰ・1年)


学校の制度や西洋の科学などがアチェの人々に、特に強い抵抗もなく受け入れられていった印象を受けたが、それはいいと思った。鍋の話のように、知らず知らずのうちに西洋のものをいいと信じ込んで、その地の伝統のようなものが失われていくような感じもするが、これは進歩とか退化とかに関係なく時代が流れていくうちに当たり前のように起こっていくものなのではないかとも感じた。(文Ⅱ・1年)