市民ではなく消費者のためのメディアになっていくのは、中国の市場主義化の現在では避けられないことなのだろうか。市場主義の浸透にともない、マスコミが大衆化して娯楽を主眼とすることは、一方では民主化であるが、一方では情報の信憑性も決して向上してはいない。特に、統制を長年受けてきた中国で改革解放が進むと、一気に市場化することから、メディアは世論の注目を得ること、あるいは世論をあおることを重視するように思える。中国の新聞による、反日感情のあおりというのも、愛国教育を受けてきた人々の歓心を得るためという側面があるように思える。急速な市場化は極端な影響を生むものではないだろうか。市場主義の弊害がある程度明らかになっている現代で、それを防ぐ方法はないだろうか。(文Ⅰ・1年)
個人には社会的利益を追求する市民社会の一員としての姿勢と共に、個人利益を追求する一消費者としての姿勢が求められているわけだが、この一見相容れない両者にマスコミ側がいかに対応しているかについて興味を覚えた。1950~70年代の30年間、つまり改革解放が始まる以前の共産党支配の中で、人民と党の意見、さらには人民と党そのものが同質化している社会、もしくは逆にマスコミが市場主義に突き進むあまり、ソフトニュースばかりが取り上げられ、人民受けのよい娯楽要素の染まってしまう社会、という両極端であり、公共圏の形成にむけた理想的な社会とは決して言えない。個人の利益の思考こそが公共圏の前提となるのは確かだが、個人が、市民社会の一員であると認識し、行動すべきであるということを忘れてはならない。この議論は決して中国にとどまるものではなく、日本にも当てはまるものだ。戦前の全体主義を意識するあまり、戦後はマスコミの商業化に拍車がかかり、個人主義に偏重してしまった。日本で公共圏を形成するためにも、「私」だけでなく「公」も意識していく必要がある。(文Ⅱ・1年)
中国のメディアの今後の行方は、やはり政府の態度の取りかたによってくると思います。私は、先生の話を参考にすると、「解放の方向性」が重要だろうと考えます。ソフトニュースばかりでは、中国国民の将来への視点が拡大するどころか、労力を割かれて縮小してしまう。ソフトニュースとハードニュースのあるべき比率というものが今後研究され、実地面に反映されることを私は期待します。(文Ⅱ・1年)
国(政府)、市場、メディアのトライアングルという見方は一般的であると思われる。そのトライアングルの中で、メディアを引っ張る力が政治、市場のどちらに偏るかが重要なわけだ。マクロな見方をしているため、他人事のようになりがちだが、市民としての個人、我々こそがそのパワーバランスの担い手であろう。個人の興味の向く先によって、パワーバランスは常に変化する。私個人としては、このパワーバランスは作為的に操作すべきでないと考える。市民に適した形としてのマスメディアで常にありえると思うからだ。(文Ⅲ・1年)
講義概要 The Impact of Media Commercialization on Chinese Public Sphere
「最近20年間の中国のマスコミの商業化が公共空間形成へ与えた影響」が今回のテーマである。
中国では50年代まで民間私営のメディアは許可されており、商業新聞「申報」や 梁啓超の政治評論紙「新民叢報」などが有名だった。しかし新中国建国から1952年の間に、私営のメディアは全て、国有になるか或いは取り締まられて姿を消した。新聞社・ラジオ局などは階層利益・個人の利益ではなく国・人民・党の利益を代表する「党と人民の代弁者」であり、政治教育を通じて同質化した公共空間を生み出していた。当時の中国では”propaganda”という言葉は、ポジティブに捉えられていたのである。1980年代以降になると、改革開放政策に伴って、人々がメディアに求める役割は大衆教育の宣伝から幅広い情報の伝達へと変化した。政府の政策調整によって各メディアは自ら運営方法を考え、財政を負担することとなったため、政治的に敏感な内容を除いて報道の自由化が進むとともに、メディアによる広告が可能となった。90年代以降はマスコミの数・規模が拡大する一方で、各メディア間に高度な競争が起きている。
メディアの非政治化が始まった78年以降、メディアは市場のニーズを受けてそれまでの「ハード・ニュース(政治的なニュース」一辺倒から「ソフト・ニュース(エンターテイメントなど)」を増やし、現在では同日のある新聞の1面に、三峡ダムのニュースと芸能情報が同時に載ることも多い。こうしたソフト・ニュースの氾濫が現代の公共空間にどのような影響を与えうるかについて検討すべきだ。欧米の学界ではフランクフルト学派を中心に、市場がマスコミをリードすれば、商品至上主義がもたらされるという批判がある。どんな民主主義社会でも、国民の政治に関する基本的知識を前提にしているため、商業文化・大衆文化の氾濫は、国民の意識や知識の低下を招く。我々は「市民」として個人の利益を越えて社会・国家へ貢献しつつ、「消費者」でもあるが、消費文化の圧倒は民間の健全な発達を阻害する、というのである。
しかし全面的に否定的な評価はするべきではない。マスコミの商業化それ自体が政治的なことである。つまり民間的・個人的空間が再び表れたことにより、①誰が政治の主体であるかの概念が変わった、②この概念の変化により権力構造が変わっている、のである。ハーバーマスは公共空間を国と市民社会の中間に位置づけたが、「国」に対し「個人」の空間・利益が認められたことで、民主主義的公共空間誕生の条件ができたのである。さらに、マスコミ商業化に対する批判はしばしば本質を突いていない。ソフト・ニュース氾濫の裏には、未だにハード・ニュースの取材・伝達には制限があり、たとえ流せたとしてもジャーナリストへの法的保障は全くない状況があることを忘れている。自由化さえ進めばハード・ニュースの需要があるのは間違いない。中国におけるマスコミの商業化の原理は欧米とは違うのである。