公共圏は国家権力の支配装置になるという論点が興味深かった。確かに、公共圏は一部の人間が大衆を恣意的に強化する場であるといえる。ただ、その主体は必ずしも国家権力に限らないと思う。「誰かが大衆を強化する」という構造の是非はひとまず措くとして、その「誰が」にあたる主体が、国民国家の解体の叫ばれる現代において多層化していると思う。そこに公共圏の可能性が残されている気がする。(1年・文Ⅰ)
恥ずかしいことですが、とても早くて正直良くわかりませんでした。公共圏とは私の中では民主主義というイメージがあって、それらと帝国主義や独裁が結びつくとはあまり考えたことがなかったので、公共圏に対する新しい認識が増えました。(1年・文Ⅲ)
明治維新以後日本が取り入れた西欧(特にプロイセン)の考え方を参考にしながらも独自の方針としてとられた「教化」という強制(≒ファシズム)ではなくて自発に基づく方針が「公」を優先させる見方として植民地朝鮮でもとられ、さらには戦後朝鮮でのナショナリズムでの考え方にも影響していったという考え方はいままで考えもしないものでした。今日も自分の知識不足か、話は難しかったですが、熱意あふれる講義とすばらしい通訳に感謝感謝!(1年・文Ⅰ)
ファシズム、日本の総力戦体制などのファシズム的公共圏をも“公共圏”の一つの解釈として成立することに驚きを感じた。(1年・文Ⅲ)
今日は時間がないので質問することができなかったことが。非常に残念です。できれば授業時間内に質問の時間をとって頂きたいです。 質問:先生のお話の最期の方で、「公共圏の今後の役割として、公共圏からexcludeされた人々が、includeされることで、個々人が“self-empowerment”されることを期待する」というお話をされたと思います。ここで、なぜ公共圏に内包されることで、“self-empowerment”を得ることができると言えるのですか?また公共圏の規模の大きさを議論する必要はないのでしょうか?先生がセマウル運動を例として挙げられましたが、それは国家が舞台でした。もっと小さな舞台でも“self-empowerment”は可能でしょうか? (1年・文Ⅱ)
講義概要 誰の公共圏なのか-東アジアにおける公共圏、その規範的理解を超えて
・公共圏の複数性
ハーバマスの言う公共圏は「みんな」を前提としており、「誰の」とつけることによって公共圏の概念に亀裂を生むと同時に、公共圏に対する新しい議論の余地を生む。
1980年代になると、公共圏に関する議論が爆発的に増加した。それは東欧の共産圏が崩壊し、市民社会の建設のための新たな公共圏の議論が増加したためである。しかし、東欧社会を見てみると、実際は公的利益よりも自己利益を強く要求しており現実とかけ離れた議論であることが分かる。つまり、東欧社会の経験は、公共圏の議論が歴史的に根ざすものというよりも、理想的で規範的なものであることを明らかにするのである。
今日の講義では、東アジアの公共圏が歴史的に根ざすものか、理想的で規範的なものか、という問題を扱うのではなく、東アジアでは公共圏がどのような政治的役割を果たすのか、という具体的な問題を考えたい。そこで中心的な問いとなるものは「公共圏は果たして公的なものなのか」という問いである。そして結論を先取りして言えば、今日のポスト市民社会において、公共圏は規範的な意味を喪失し、「公」の名の下に「私」の利益を正当化する装置となっているということである。
・東アジア、帝国と植民地の公共圏
東アジアにおいて公共圏が支配装置として存在しはじめたのは明治維新以降であり、その中でも帝国日本の「強化」は政治権力と市民的日常の関係づけにおける核心であった。つまり、植民地権力は暴力的収奪としてではなく、積極的に公共圏を作り出して国家が要求する価値を内面化させるヘゲモニー的支配の役割の中心軸として捉えられるのである。
このことは、公共圏が国家によって操作されるものであるという従来の見解に新しい解釈を生む。つまり、植民地期の公共圏は民衆の自発的な生活の改善や自発的な運動につながるものであるという側面も持つからである。例えば「内鮮一体」を取り上げて、なぜ「内鮮一体」なのに差別があるのかと改善の運動をしたことが挙げられる。
このような反応は解放後の韓国でより顕著に見られる。日本が用いた植民地支配強化のためのレトリックや言説を、解放後の韓国でナショナリストや民族主義者が踏襲したのである。換言すれば、韓国のナショナリズムの核心に位置するものが植民地期の公共性のレトリックだったということである。例えば、近代化推進のセマウル運動において、国家機関で訓練を受けた女性が村に帰ると、訓練を受ける前よりもいきいきとして男性とも対等に向かい合うようになるという現象が見られる。つまり、公共圏は国家のイニシアティブによって作られた支配下に入るというマイナス面をもつが、同時にそれまで国家に排除されていた人が国家に参加することによって、自分に自信をもてるようになるというself-empowermentの働きをもつプラス面ももつのである。