2006年度冬学期 EALAIテーマ講義 東アジアの公論形成 II

火曜5限(16:20-17:50) 教室:12号館1213
担当教員:三谷 博
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

アンケート紹介

2006.11.14(火)「東アジアの『国際公共圏』史(2)」潘 光哲

今回先生の話で一番興味をもったのは、新聞同士での議論がないということでした。確かにどの新聞を見ても違いが見えないのですが、そこに危機感をいだいてはいませんでした。しかし、色々な観点(ブルジョアやマルクス主義)で世界をとらえた公共圏ができるという考えをきいて、もっと違った考え方の新聞を読みたいと思いました。また日本からメディアの影響をうけたというお話に関しては、そうした交流が今もあるのか?などもっと具体例をあげてほしかったです。(1年・文Ⅱ)


今の新聞というのはメディアの中心とは言えないまでも、ニュースを国民に伝えるという役割は果たしている。しかし新聞自身が意見を述べるというのは社説に残っている程度である。三谷先生の話では新聞同士は自論(自国の論理)をぶつけ合う現象が20世紀前半に見られるということだった。新聞というのが国民に情報を提供すると同時に、国民の主張をくみとる役割を今より強くもっていたというのは興味深いものである。また研究者の目が自国にしか向いていないのは、今日との対比という観点が抜けており、有機的な議論ができなくなるのではという危機感を覚えた。(1年・文Ⅱ)


日本のメディアが中国メディアに近代期から引用されていたという事実は、自分にとって新たな知見となりました。ただやはり、原文を変更したり脱色したりしていたという点は見逃せないでしょう。そのような現象が当時両国に如何なる影響を与えたのか、に関する研究が進めば、東アジアのこれからの公論形成のあり方に有用な意見が呈示されうると思います。もっとも、現在はテレビ・インターネットが存在し、かつメディアにふれる人の数はかつて「知識人層」のみであったことを思えば、それに比して膨大であり、また多種多様な境遇・思想が反映されてはいますが、どのように応用されるべきかについても研究が進めばなお望ましいかと思います。(1年・文Ⅱ)


情報・メディア分野における日本と中国の19世紀からの関係の深さに驚いた。明治維新と文明開化に成功した日本と、洋務運動と近代化につまずいた中国ではあるが、新聞という文化を通じてここまで密接に関わり合い、情報面における進歩、すなわち知識の国際化を相互に高め合っていたのではないか。また、新聞は世論を形成する重要な要素であり、当時から今日にかけての東アジアの国際関係にも少なからず影響を与えていると思う。(1年・文Ⅲ)

講義概要 
 1890年半ばから中国各通商港では中国人による大衆メディアが誕生したが、今回の講義では特に『時務報』(1896年)、『国聞報』(1897年)、『知新報』(1899年)などを例に、こうしたマスメディアの歴史的作用と意義を見ていく。先行研究としては、1895年~1920年代のメディアの社会意識への作用を扱った張澎氏の研究、李鷗梵、Joan Judges、Barbara Mittler各氏によるものがあるが、それぞれはPublic Opinion (ブルジョワジー公共圏)の働きを指摘したJurgen Harbermasの研究を基礎としている。日本には三谷先生のJapan’s “public sphere” が、インドではVelna Naregelらの研究があるが、一方でマルクス主義やJoan B. Landesらジェンダー論の立場からの批判もある。また李鷗梵によれば、中国には“public sphere” ではなく“public space”のみがあるという。例えば『申報』の「自由談」欄では投書による意見交換が成立していたという。このような研究を基に、ハーバーマスの公共圏論を新聞・雑誌という角度から深めていくつもりである。
 その方法としては、「小作理程、大施工力(テーマを小さくして大いに力を注ぐ)」(朱熹)を念頭に、テキストを構成する歴史的、物質的背景を考え(Rodger Chartier)、ニュースの伝達速度、新聞消費の速度、新聞の入手経路を考慮にいれる。例えば1857年時点では英国→上海までのニュース伝達速度は二ヶ月だった。
 東アジアでは新聞によって思想文化が互動・交流した。特に晩清知識人による日本の新聞からの取材は顕著である。唐才常は1893年、長沙で『湘報』を創刊し、雑誌《日本人》に倣って湖南新政を実現しようとし、1870年代の『申報』は琉球事件について日本の各新聞社の意見を紹介している。さらに梁啓超創刊の『時務報』も『国民新報』に掲載された古城貞吉の「過ポーランド紀」を翻訳して紹介したりしている。つまり新聞は情報伝達ツールから知識を得るための情報源となったのである。1904年に創刊された『東方雑誌』は、中国で最も長期にわたって発刊された大型総合雑誌であるが、日本の『太陽』や英米の『Review of Review』を模倣しており、第一号では日本皇帝を写真入りで創刊している。主筆であった杜亜泉(筆名:傖父)も『太陽』から取材した文章を書くことがしばしばであった。1910年代の五四運動時には陳独秀らによって『新青年』が創刊されたが、日本の新聞の直訳をしばしば紹介しており、例えば日本「中外」雑誌の山川菊枝の文章を訳した李大釗の論文を掲載している。学生による雑誌の創刊も相次ぎ、北京大学生による『新潮』も日本の新聞から取材していた。
 張澎氏は当時は日本の新聞雑誌が「転型時代」の牽引役になっていたと見る。近代中国で、知識人が日本由来の情報を用いて愛国・啓蒙活動を行った例は枚挙に暇がない。こうした日本からの「跨国」のニュースは近代東アジアの国際公共圏の一つの方向性、つまり新聞情報の交換、把握による共同の主張の展開や意見交換の可能性を示しているといえる。ただし今回は中国の場合を論じたのみで、日本・朝鮮の新聞の研究はこれから行われねばならない。