2006年度冬学期 EALAIテーマ講義 東アジアの公論形成 II

火曜5限(16:20-17:50) 教室:12号館1213
担当教員:三谷 博
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

アンケート紹介

2006.10.24(火)「東アジアにおける『公共性』の批判的考察(2)」孫 歌

農村問題に対する対応が社会全体を見る上で非常に大きな役割を持っていることが分かった。私達が無意識のうちに普遍的なものと思いがちな西洋的な歴史観・イデオロギーが中国を通すことで相対化することができると考えられる。西洋的な近代化ではなく、中国の文化的・歴史的背景に則した独自の近代化が必要ではないか。唯一の方法と思われる、一つ一つの問題についてより吟味し正しい方法を見つけていくというのは難しいことだと思うが、そのためにも幅広い知識と見方を身につけたいと思った。(文一・1年)


西洋式の民主主義を中国に当てはめるのは甚だ困難なことだと聞いて他のやり方があるのかと思った。流動性の高い時代に流されないためには、歴史を学ぶしかない、との議論が印象的だった。(文一・1年)


法至上主義を嫌う中国の農村社会であるならば、国家政府の措置が農村民を圧迫しないことが一番重要なことである。前近代的な共同体的価値観を、国家の均質化政策が壊してしまうならば、それは農村の生きる人々の求める生き方の多様性の権利の侵害になるだろう。市場経済についても同様で、包括するエリアをグローバルレベルにまで広げていく市場原理は、農村の共同体的価値にそぐわないこともあるだろう。制度や枠組みであてはめたり、押し付けたりするのではなく、国家はそれを人々に選ばせる包容力が必要で、公共空間はそこではじめて生まれえるだろう。(文二・1年)


「我々日本人は西洋民主主義の中で生活しており、一応成功していると言えるだろう。そして我々はこの制度が正しいと信じている。従って、中国に対して民主主義を押し付けてしまう。中国においては農村社会が優勢であり、コストの高い民主主義は達成されない。出来上がった存在としての『中国』などというものはないので、ステレオタイプに民主主義の達成されない中国は遅れていると考えるのは間違っている。」という内容が今回一番心に残ったものである。ここで思ったのは、我々はやはり中国を怖れているのだろう。実態をよく知らない中国は「何をするか分からない」という恐怖が意識の中にあるために、我々の理解できる(安心できる)形で中国をゆがめているのだろう。中国では情報が足りないという。しかし我々日本人も本当に重要な情報を得ているかという点について一考すべきだと思う。(文三・1年)


中国だけに関わらず、人々はしばしば二元論に陥っていると思う。善か悪かという定義付けはだれもが無意識のうちに行っていることだろう。しかし現実社会に完全な白や黒は数少ないのであり、現実社会を考える上で大事なのは灰色の濃度であると思う。(文三・1年)

講義概要 「公共性」に関する認識論の再吟味 
 前回紹介した農村の現状をもとに、今回は中国式民主主義の形成について述べる。1981・2年の農村改革・「請負」(承包)方式によって農民は15年の契約で個別に土地の使用権を得たが、同時期に知識界で「思想解放」が提唱されていたこともあり、この時期に村内選挙が実施された。それまでの党からの指名制ではなく、直接選挙(海選)で村役員が選ばれるようになったため、従来の不正問題が解決される一方で、「上」との連絡ルートを持たない村役員の誕生という問題を招きもした。当時、農村を研究対象としない知識人は、社会問題の全ての原因を民主主義の不足に求めたが、農村の直接選挙の結果からは、西洋モデルの民主主義の安易な導入には批判の声も出た。というのは、村の「上」からの孤立は、しばしば公共地の奪い合いや村内での経済格差の拡大を呼ぶからである。
 温鉄軍(中国人民大農業農村建設学院長)によれば、中国の農村建設には先進国モデルはコストが高すぎて使えないということになる(「新農村建設」方針)。温氏は、法治社会の実現は米国では可能でも、中国の田舎では無理だと考える。中国農村には、与えられた制度としての法律ではなく、「顔」と「信頼」をうまく使うことが一番コストの低い“民主主義”に成り得る。従って新農村建設には先進国よりも発展途上国のモデルが参考となるため、温氏はしばしば南米の発展途上国に足を運んでいる。
 また、市場経済の推進によって農村問題を解決可能とする立場があるが、情報量の少ない農民にとっては市場経済よりも国の介入が必要な場合がある。つまり、農村問題はよく官―民の対立の現われだと誤解されているが、むしろ官民の協力があってこそ解決可能なのだ。実際に温氏も地方政府との関わり合いの中で「合作社」を設立して農民の生産指導に貢献している。また農業系大学の研究者が地方政府と連携して農民支援を行うことも多く、福建省河南蘭孝で活動中の何慧丽の例は有名である。彼女は合作社を設立し、無農薬の稲を生産・販売する活動支援を行っている。知識人には伝統的に「反体制」の立場を取る者が多いが、現場を知る人間はそれが現実にそぐわないと知っているのである。
 つまり農村問題は中国の知識界に「現実性」が欠如していることを明らかにする。中国は転換期にある、という言説は、実は転換こそが常であるという認識に欠ける。西洋式モデルが中国にもいつか定着するだろう、と考えるのは誤りである。このような言説を唱える学者には、M・ヴェーバーの言う「心情倫理」の上で不毛な議論を繰り返すのみであり、「責任倫理」が欠如していると言わねばならない。
 農村問題を取り上げる主なメディアとして雑誌『中国改革』(農村版)や『三民問題』があるが、特に後者は同誌内で研究者同士の論の対立があるなど、農村問題をめぐる言説の混乱ぶりを伝えており、問題の一面的な把握を揺るがしている。一方、都市の反応としては「一方通交路図書館」(若者の共同出資による公共サロン)の活動が目覚しい。またジェームズ・イェン農村復興学校の取り組みなど、大学生ボランティアの農村への派遣も盛んである。
 以上、農村問題とそれをめぐる言説から、東アジアの公共性を論じる際の注意点を述べたい。というのは、まず「公共言説」は概念から入っていくものではなく、現実感覚から出て着ているものだということを理解する必要があるからである。「認識論」としての中国を扱ってはならず、この国の激動や混沌が言語の上では表象されにくいことを意識する必要がある、ということである。