日本における公共性の概念の誤解や公共圏の理念が明確化されたため、今後の議論の準備が出来たと思う。いくらインターネットが普及しても、そこに公論が形成されるのは難しいという三谷先生の意見には賛成である。異なる意見を戦わせているページよりも、同意見の人が他者を批判するページが主流であるという感が強い。また、一つの新聞を読んだだけでは、一社の論説を一方的に受けるしかないという現状では、公共圏には遠いと思った。(1年/文Ⅰ)
メディアが大きく発展したことで逆に人々が自分で情報を調べるということをせず、メディアの情報を疑問を持たずに受け入れている現状に問題があると思うが、日本では権力に疑問を持たない国民性があるのも一因ではないか。西欧のような革命はなく、明治維新でさえ政治をしていた武士階級主導であったことを踏まえると、国民一人一人の問題意識が伝統的に希薄なのではないかと思った。(1年/文Ⅱ)
公共圏が議論の場から、単なる情報提供の場へと変わってしまったことが分かった。理念的には論争の場である事が望ましいのは理解できるが、ブルジョア階級だけがそのような議論に参加できた時代と、積極性さえあれば誰でも参加できる現代で同じことが目指せるのか疑問に思った。これ程大衆化の進んだ社会で、国家や地域規模で公共圏を形成することは可能なのだろうか。(1年/理Ⅰ)
現代において、マスメディアはもはや“公共空間”として成立していない。“公共空間”故の性質でなく、もはやマスメディアによる情報は発信者=新聞社・TV局、受信者=一般大衆の一方通行でしかないのではないか。インターネット上の議論が閉鎖的だとおっしゃっていたが、近日の新聞の投書(=アゴラ?)を見れば、それこそ謎の活動家の自発的な投稿ばかりではないか。明治・大正の輝かしい(?)新聞を、現代の新聞と同じ物として扱うのは無理な気がした。(もちろん、かといってインターネットを理想の“公共空間”などとは到底言えないが……今の日本に“公共空間”は存在しないのかと感じた) (1年/文Ⅱ)
特に後半の方の話がとても興味深かったです。指南諸問題が起きたときは小6か中1くらいでしたが、子供ながらに子供じみた事件だなぁと思ったことを思い出しました。今、史料論という必修授業で戦後の朝日新聞の縮小版を10年ごとにしらべて、親殺し・子殺しなど家族関係の記事を探してデータ化するという気の遠くなるような作業を協力してやっています。地味なのですが調べていると、新聞が必要以上にいろいろなことをあおっていると感じます。近年になって残忍な親殺しなどが増えたといわれますが、50年くらい前から大差ないなぁ、と考えつつ読んでいます。(1年/文Ⅲ)
講義概要 日本の公共圏とマスメディア
○公共圏、公的領域とは~論争のある概念
18世紀の市民的公共圏:「理性によるコミュニケーション空間」(J.ハーバマス)。リベラリズムの「公的領域」:市民の個人的利害なき社会における最小共約部分(J.ロールズ)。個性のために保持され、言葉と説得による競技精神を通して最良の者が成立するアゴラ(H.アーレント)。公共圏はクラブやサロンなどの文芸的公共圏が政治について討論をする政治的公共圏に発展したもので、公共圏に参加できる人は限られていた(女性、子ども、労働階級、無産階級は排除された)。よって、市民的公共圏はブルジョア公共圏であり、18世紀に生まれた歴史的産物であった。ハーバマスは公共圏を歴史的概念としつつも、非常に理念化している。上のような公共圏を理念化することは、外国人や貧困者、女性の問題など社会の一番大変なところの問題を取り上げることができない。つまり、公共圏の内在的発展の限界があるのである。
○20世紀の公共圏
20世紀はマスメディアが台頭する時代である。ファシズムと公共圏が結びつき、プロパガンダの役割を果たすようになった。そのため、討論する公共圏はなくなり、我々は政治についてagreementやacceptanceをするだけになった。「世論」の形成過程が変わり、理性を使った公共圏から、政治に対する当事者意識が徐々に失われた公共圏に変化した。
○Publicという概念の文化的規定性~日本文化からどの程度公共圏を理解できるか
公共圏は西欧の歴史からの抽出概念であるという限界がある。そもそも、日本における「公」の概念には「お上」「権力」「天皇」といった概念が含まれており、西欧のPublicの概念とは異なるものである。そこから日本における「公共性」概念への誤解が生まれた。たとえば、次の四点のような誤解が挙げられる。①「公共性(Public)」は「公的(Official)」である。②「公共性」は調和と連帯を前提とする。③「公共性」は良いものである。⑤「公共性」と「ナショナルインタレスト」は合致する。
○日本のマスメディアと公共圏の問題
例として次の五点を挙げることができる。一つ目は、新聞社の社員持ち株制度。これにより、新聞社は経営内容が不透明であり、オーナーによる権力乱用の危険性などといった非近代的体質をもっている。二つ目は、到底「報道」とはいえない「皇室報道」が挙げられる。三つ目は、放送免許制度。日本の放送は政府(総務省)が管轄しているのである。四つ目は、「ジャーナリスト」の不在が挙げられる。新聞社やテレビ局に所属した会社員としての「記者」しかおらず、各新聞社や各テレビ局の枠を超えた横のつながりをもった「ジャーナリスト」がいないのである。最後に、「公共放送」としてのNHKのありかたがある。NHKは数々のスキャンダルを起こしてきた。なぜ日本の「公共放送」はこうなるのか。日本でいう市民的公共圏とは何なのか。ハーバマスの公共圏を理念として用いたら何か解決できるのか。我々は考え続けなくてはいけない。