古代中国において老子は「万物は水の如し」と言い、古代ギリシャにおいてはタレスが「万物の根源は水」と言い、哲学が始まった。東洋と西洋において「水」というキーワードが共通して思想・哲学の根源にあるのは興味深いことだ。(文Ⅲ・2年)
面白い知見を得た自覚がある。「実践的」な哲学のレッスンだったと思う。折に触れ思いだし、現実に生かしていきたい。(文Ⅰ・1年)
神が「近代化」していくくだりに特に刺激を受けた。近代の中で自然との「対決」に向かっていく近縁の流れを的確に表しているなと思う。自分は環境災害に興味があるので特に「神が消失」したことは自然を受け流す(神のものとして受けることを受け入れる)のではなく、人の力であらがう方向に人々を動機づけていったし、それが昨今の「ダム」やら災害(堤防を作ることによって人々は安心しかえって都心を災害の危機にさらしてしまう―昔はなかったらあぶないところに人は住まなかった)の問題がでてきたのかなと思った。(文2・1年)
「合理化」の追い求むものが、実は人々が共に生き、社会を成立させるためには逆に非合理的であると考えられるが、その時どのように人々は共生のすべを見出せば良いのだろうか。排他性を含まない共同体は実現可能なのかは、今後とも考えていきたい問題である。(文Ⅰ・1年)
強大な権力に名を、顔を奪われても、人と人とが同じ地平で関係を結ぶときにそれらを回復することができるのだと思います。支配されている人に対する私たちの視線が、隔絶した他者に対するものであることを越えて、本当に他者と出会うにはどうしたらいいのか、考え続けていきたいです。(文Ⅲ・1年)
近代化によってNation State/国家というものが誕生した。その「国家」という共同体をかためるためにまず社会主義を作る必要がある。そのあとに資本主義を作ることができるのだ、というお話は新鮮でかつ、とても納得することができた。また「Nation」としての共同体だけでなく「階級」という共同体を作りだすという考えも新鮮であった。(文Ⅰ・1年)
中国思想の言葉を使わずに中国思想を語るという試みには今回初めて気付かされた。資本主義的生産様式がローカルな枠組みを超える中、思想もそれを越えて対抗しなくてはならないということなのかもしれない。(文Ⅲ・2年)
『セチュアンの善人』の中で、資本主義の世界では神が経済に手出しできない、神が唱える善行を行った人は破滅してしまうので道徳を取り消さなければならないなど、神の無力を神が自ら述べることは皮肉的で面白かった。(文Ⅰ・1年)
福島の原発事故の問題は、まさに資本主義における目に見えない「何か」の暴走とそこに伴う善の失墜を象徴していると思う。人々の信頼を取り戻すには、科学的説明や金銭による保障では不充分である。哲学、倫理学は前近代的なものに見なされがちだが、そのようなものを含めたコミュニケーションが必要とされているのかもしれない。(文Ⅲ・1年)
烟、酒、茶、糖や水のように目に見えるものが人と人の間を結ぶという一方、電気のような実態の無いものの圧倒的な「量」が「個」を殺してしまう。そのような実態の無いものばかりが注目され、あふれている現代で人を結びつけるのは何なのだろうと考えた。それは相変わらず「水」のようなものであるかもしれないし、ひょっとすると「電気」のようなものが新たな形の結びつきを生むかもしれない、とも思った。(理Ⅱ・1年)