今回の講義は、人々が死に、自然な死についてどのように考えてきたか、という思想的な面と、それに対してどのようにふるまってきたか、という行為的な面が上手く統合されていてわかりやすかった。(文Ⅰ・1年)
現代では死が病院や業者によって遠ざけられたために死生観に変化が生じたとあったが、死者の魂への恐怖心は一貫して存続している。「死者に意思などない」とより確実に述べられるようになった時代において尚「追悼」の念が残っているのはなぜだろうか。(文Ⅰ・1年)
規範的であるという意味では老衰死が一番自然かもしれませんが、そもそも事故や病気が原因で死ぬという過程はとても自然なものであり(大事故や被動病気で死んでしまわない方が不自然)、死は全て自然なものではないかとも考えました。(理Ⅱ・1年)
結局、今の生活が原始の生活からずいぶん離れているから、自然、不自然という考えが生まれるのだと思う。(文Ⅰ・1年)
平安時代では人がふつうに捨てられていたりだとか、死に対して悲しみと言うよりは忌避というものがあったというのを知って、今の自分が死に対して感じる気持ちは社会が作り出したものなのではないかだとか思ったり、また現代社会は死や自己(グロテスクだとか非日常)という「ケガレ」を必要以上に私たちから引き離そうとしてしまっているのではないかと思った。(文Ⅱ・1年)
昔の人が死を呪い、罰の結果だと考えたことは、なぜ死ななければなかったのかを理由づけしないと受けいれられなかったからではないかとも思った。(文Ⅰ・1年)
現代の私達の生活で、死といえば悲しみがまず沸き起こってしまうのは、それだけ私たちが死から遠ざけられた恵まれた生を生きていることなのだなと気づかされた。それは不自然なことなのかもしれないが。とはいえ、極めて幸福で人間的なあり方だと感じる。(文Ⅰ・1年)
かつて「死」が呪いや罰が原因なものだと考えていたならば、「老い」についてはどう考えていたのか気になりました。(理Ⅱ・1年)