EALAI:東京大学/東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ | EALAI・UTCP共催 冬学期テーマ講義 | 共生のレッスン 東アジアの磁場から

金曜2限(10:40~12:10)
教室:1108教室
対象クラス:1年 文科 理科/2年 文科 理科
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

アンケート紹介

2012.11.20(火)共生のための障害の哲学(1)

自分は自己表現はできない。自分の弱みを他人にさらけ出すことになるから。他人の相談には積極的に乗りたいと思うが、自分が相談することには恐怖心を覚える。気安く自己を表現できる心情が良くわからない。これはどのような違いからくるのか?(理I・1年)

自由に自己表現する場を提供することは、障害を心に持つ人との共生のための一歩として、相互に近づく媒介としての役目を果たしてくれると思う。(文I・1年)

自己表現のあり方というのは“障害者”に限らない問題で、自殺大国日本において障害者の自己表現を切り口に普遍的な議論として考察していくことも意義があるのでは。(文I・1年)

アートで自己表現するためにはある程度の才能や技術が必要だと思う。こうした才能や技術がない障害者の方が自己表現する方法は他にないのだろうかと思った。(文I・1年)

表現するというのは必ずしも人にわかってほしいからではなく、自分の心を形にしたいからなのか?それとも人に伝えることで自分を理解されてはじめて心が安らぐのか?(文III・1年)

(塗りつぶしたハガキの応募作品は)自分の人生に意味がある、ということだけでも誰かにアピールしたい、そういう思いからあの作品の作者はこの行動をとったのだろう。(文I・1年)

「障害」という概念は考え方の枠組の一つに過ぎず、したがって「障害」もアートの場においては一種の才能や個性と見なしうると思う。(文I・1年)

「苦しいこと」をわかってあげるには、その「苦しみ」の深層にまで踏み込んでいかなければ、不可能であり、苦しんでいる人への深い共感には繋がらないのではないかと思った。つまりこれは、苦しみの内容を全く知らされずに、相手に苦しんでいると告げられてもそこに共感は生じないのではないかという問題である。(文Ⅲ・2年)

今回の講義では何度も衝撃を受けた。それは心のリアリティに強く接近してしまったからだと思う。裸の心はざらざらしていて、空気に触れられるだけで痛くて見せられない。『病葉』や被災地の子供の絵など、不遇を表現する人たちは同時に見えない血反吐を吐いているのかもしれない。(文Ⅰ・1年)

今回の障害者の話は、この共生というテーマに一番しっくりくるテーマだと個人的に思う。(文Ⅰ・1年)

お話を聞いて精神障害者は彼らなりの考えをきちんと持っており、社会の目も気にしているということが分かった。社会一般の通念や正論を彼らにおしつけるのは酷なことだと思う。(文Ⅰ・1年)

背広は心を隠すヨロイなのですかね。彼らは自分の心など出してはいけないし、いつしか出そうとも思わなくなり、出せなくなるのかもしれませんね。…(中略)…「障害者」という表現にしても、精神科病院の展示にふさわしくない絵という意見にしても、妙に気づかいをし、かえって不自然な方向性に距離をおいたり線を引こうとしたりするのは「障害者」ではない「外側」の人々な気がします。(文Ⅰ・1年)

僕自身心の中を描けと言われても描けないと思う。…そもそも自分の気持ちをしっかり理解していないからだ。(文II・1年)

インパクトが大きすぎて、自分には受け止めきれない、理解しがたいところが多かった。…ある程度の距離感を感じざるを得なかった。差別視などでは全くないが、私はこの分野に踏み込みたいとは思えなかった。(文II・1年)

表現したいことを持っている人が、その人なりのやり方で表現したことを受け止める、受け皿こそが共生を考える時に最も重要なのではないかと感じた。(文II・1年)

40代、50代が一切書かないのはこれこれ原因があると思うのは当然考えたくなると思うが、皆描いたのにこの人たちだけ描かないのはおかしいと思うのは少し待った方がいいと思う。(理I・2年)