EALAI:東京大学/東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ | EALAI・UTCP共催 冬学期テーマ講義 | 共生のレッスン 東アジアの磁場から

金曜2限(10:40~12:10)
教室:1108教室
対象クラス:1年 文科 理科/2年 文科 理科
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

アンケート紹介

2012.11.02(金)自然と規範性(3)~自然との自然な関わりは可能か?

そもそも自然との自然な関わりは必要あるのか疑問に思った。自然な関わりができても、結局は小さいコミュニティーで命の軽重は生まれるはずだし、自然な関わりをしないで人為的に頼る生き方の方が、格差が少なくなって軽重の比重も小さくなると思う。(文Ⅱ・2年)

古今東西、自然を人間がどう捉えていたか、今はどう捉えているのか、自然に対する思想史を辿ってみるのも面白いと思った。
自然との共生を考えた場合、人間存在そのものが環境を破壊しないと生きて行くことができないものであると思う。したがって倫理、なかでも故今道友信氏が唱えていたエコエティカ(生圏倫理学)を一人一人の人間が考えねばならない時代が来ているように感じる。(文Ⅲ・2年)

経済成長を維持するにはゴミを処理するしかなく、安く処理できる後進国を利用するのは致し方なく、その国にもお金が入るのであれば良いことなのでは。もしやめてしまったらその国の人はどのように生計を立てていくのかということも思い、多少の承服しかねる気持ちも持ちました。(文Ⅲ・1年)

個人レベルの話で、私にとって私の命の方があの見知らぬ人の命よりも数倍重い、というようなことは、私たちが常日頃生きて行く中で、それによって行動しているというようなルールの一つではないかと感じた。そのようなことを社会が隠そうとする必要性、意義が興味深いと思った。(文Ⅲ・2年)

死に対する感情が「悲しみ」だけになっているのは都市部の話だと思う。親戚が病床で死に瀕している姿や、死んだ曾祖母の姿を見て、子どもながらに慄然としたことを未だに生生しく覚えているので、恐怖と死が結びつくイメージは個人的には強い。(文Ⅲ・1年)

自然から主体的に働きかけることはないから、人間が積極的にそのバランスを考えて、自然に接していくべきだと思う。それが自然に対する自然な関わりであり、人間が自らの利益のみを考えるといったことがなければ可能であると思う。(文Ⅱ・1年)

自然の価値は「人間と環境」という二項間の軸の中で地球を捉えざるを得ないのではないか。「地球を守る」というフレーズの原動力となっているのは、自分たちが自然を活用できなくなる、といったエゴそのもののことが多く、正義感たっぷりに声高に主張するのは何か取り違えてしまっていると感じた。(文Ⅱ・1年)

命が等価であると考えるのは、すなわち命に価値を見出さないことと私は考えるので(価値の差がないなら価値という概念がある意味がない)、人間中心の尺度で語られるのは当然のことなので、命の軽重は絶対に存在すると思います。(文Ⅱ・1年)

結局、自然との自然な関わりが可能かどうかに対する結論がよくわからなかったものの、人権問題を優先させるべきだという意見は的確だと思った。私たちが世界に目を向け別の立場の人々への理解をもつ必要があると感じた。(文Ⅰ・2年)

自然そのものに魂がないからこそ、自然は畏怖される存在であれるのではないかと思う。自然に魂があれば、自然と人間が対等な関係に(自然の立場が低く)なってしまうのではないか。(理Ⅰ・2年)

生活圏を拡大する中で災害が起き、拡大が制限されたことはわかったが、その制限の度合いにおいて西欧と東洋の間に差異はあったのかが気になった(社会的な思想に基づく差異)。
実際に自然とのバランスを壊し、それによる災害を味わうことが少なく実感がなくなってきているということが身にしみた。その実感を取り戻す必要はあるのか、またそれがあるとしてどうすれば取り戻せるのかが気になった。(文Ⅰ・1年)

先生は自然の反対を過度な人為やテクノロジーだとおっしゃいましたが、アリが地中に巣を作ったりクモが巣を張ったりするように、生物は自らの都合に合わせて環境を変えていくのが自然な行動だと思います。どこからが過度な自然への人為的干渉なのかを決定するのは非常に困難だと思います。(文Ⅰ・1年)

チベットの人々にとって鳥葬は自然なことで、みんなは「天葬」での葬儀は「神聖」なことだと思っているそうです。鳥葬はチベットの自然条件に合っています。樹木が乏しく、凍土が多いので、「火葬」や「土葬」が難しいです。(文Ⅱ・1年)

「江戸時代は自然と共存していた」という言われ方は、環境問題が声高に叫ばれるようになったタイミングで囁かれ始めた寓話という解釈で良いのでしょうか。(理Ⅰ・1年)

自然は相対的な観念であり、そのことを踏まえず「自然だ」という表現をしようものなら、その裏には知らず知らずのうちに自己の絶対視という傲慢さ、「自然」を正当性の武器に仕立てる卑怯さを見せてしまい得ることに注意したいと思う。(文Ⅰ・1年)