2008年度夏学期 EALAI /ASNETテーマ講義 | アジアの自然災害と人間の付き合い方

月曜2限(10:40-12:10) 教室:5号館523
担当教員:小河正基(総合文化研究科准教授)/加藤照之(地震研究所教授)
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

アンケート紹介

2008.06.23(月)都司嘉宣:「津波の発生メカニズムとアジアの津波」

太平洋側では海溝がある為、割合狭い区間で海深差があり、むしろ(津波が)起こりやすい気がするのだが、津波の起こり易さというのはどのような要因で決まるのだろうか。(1年・理Ⅰ)
【都司先生のコメント】
津波は海域でマグニチュード6.3以上の震が起きると起きます。このような地震の起きる場所はプレートの沈み込みが起きている、海溝線の「沈み込まれる側」の地下のプレート境界面の滑りによって起きることが多いので、「海溝沿いで津波の発生頻度が大きい」と言うことがいえます。というより、現実に津波の大多数は海溝沿いで起きています。「津波の起こりやすさ」という言葉の意味に、「津波が発生したとき、それが大きな津波になりやすい」と解釈するならば、これも海溝近くでよく起きることです。というのは海溝付近は水深が深く、そこで発生した津波が沿岸の浅い海域に進行してくるとき、増幅するからです。



洪水のように、津波によって何かしらのメリットが生じる、ということはあるのだろうか?(1年・文Ⅰ)
【都司先生のコメント】
ある。それは、閉塞性のつよい湾内の清浄化、掃除の役目をすることがあるからである。たとえば三重県の英虞湾は真珠の養殖で知られているが、長年の湾内での真珠貝等の養殖のため、湾内の海水が富栄養化し、また湾内海底に貝から排泄される腐食物が厚くたまり続ける。このようなとき、小さな津波が起きれば、湾内が一気に浄化されることがある。



実際に現地に赴く、先生を含めた海外の調査チームは何をするのか?被害状況をインドネシア政府などに情報提供して、災害復興の手助けをすることなのか。津波を再びそれが起こった時に被害を緩和するには何ができるのか。(1年・文Ⅱ)
【都司先生のコメント】
ともかく、地震津波で起きたことを、写真、海水浸水標高の測定、家屋の流失記録、被害数、植生の喪失記録、余震の観測のための地震計の設置、地殻変動の観測、津波によって内陸まで運ばれた海辺の砂の堆積状況の調査、等を行います。これらの調査は、津波から時がたつにつれて困難になっていきます。
国際調査団は、被災国の首都に入ると、まず相手国がその日までに把握した情報の聞き取り会議、これから現地に入って行う調査の打ち合わせ、相手国側の協力者の決定を行います。現地での宿泊場所の確保、衛生状態、万一重病者が出来たときの病院搬送手段、現地の治安状況、レンタカーが借りれるかどうかなどを聞き出します。
現地での調査が終わると、首都に戻り、その調査であらたに分かったこと、現地で状況を見た上で感じた防災上有効な手段、などを発表します。たとえば、1994年インドネシアフローレス島の地震津波のときには現地の住民の家屋にほとんど斜材が使われていないことから地震の横揺れに弱いことが、(日本人なら一目で)分かりましたが、調査後ジャカルタの気象庁での報告会でその点を指摘しました。また、浅い海域に柱を立ててすむ習慣を持つバジョー族がいますが、津波にきわめて不利であることは明らかでした。民族伝統と津波対策は相反して、折り合いが難しいですが、このままでは津波犠牲者は減らせないと指摘しました。



過去の地震の大きさが古文書の内容からかなり細かく推定されているが、どういった方法で推定しているのか疑問に思った。(1年・文Ⅰ)
【都司先生のコメント】
古文書の記載から震度4,5、および6、7の範囲を出します。家屋の全壊が記録されていればその場所は少なくとも震度6です。家屋の全壊が全戸数の10%以下なら震度6弱、10%を越え60%以下なら震度6強、60%を越えていたら震度7と見なします。道路の亀裂、大規模な斜面崩壊なども震度6弱以上です。家屋が倒壊はせず破損であれば震度5です。瓦が落ち、壁に日々程度だと5弱。家具が倒れ、大破とあれば震度5強です。石灯籠、鳥居の転倒、石垣の孕みだし、地下水の噴出は震度5強かそれ以上(程度が大きい場合)です。
家屋被害はないが、器の水が溢れた、人々が家から逃げ出した、「近代覚えぬ大地震」などの記載は震度4です。
以上の古文書から知られた震度を地図の上にプロットします。
震度4、震度5,震度6の範囲の面積を平方キロメートルで求め、近代に起きた地震のそれらから得られている次の公式に当てはめます。

log S4 = 0.82M-1.0
log S5 = M-3.2
log S6 = 1.36M-6.66

これらによってマグニチュードMを求めます。



津波の破壊力は写真でよくわかったが、津波が直撃したとき、どれくらいの力が建物などに加わっているのですか。(2年・理Ⅰ)
【都司先生のコメント】
たとえば、2004年スマトラ島地震津波の時、最大被災地のバンダ・アチェ市では、市街地の中を流れていた津波の流速は毎秒6m/秒ほどの流速であったことが、ビデオ映像や、家屋内外の浸水標高差、等から分かっています。海岸から3kmのあたりで水の厚さは3mぐらい。
流れがUのとき、流れに直角方向の平面に投影される面積をA、とすると、うける力Fは

F=Cd×A×w×(Uの自乗)/g

で与えられます。ここでCdはドラッグ係数、あるいは抵抗係数と呼ばれ、円盤(垂直壁)で1,球のとき0.3ぐらい、wは液体の単位重量で海水の場合1023(kg/立方メートル)になります。
人間が足から頭までこの津波に漬かっていると、A=0.5平方メートル、Cd=0.4としてこの値は約740ニュートン、つまり、約75キログラム重の力を横から受けることになります。浮力のため、体重で地面にかかる力による摩擦力による抵抗が期待できないので強力な力で何かに捕まってないとたちまち流されます。
ただし、この計算は、この流速の中にそっと置かれた人が横から受ける力になります。ある瞬間まで津波に襲われて居らず、次の瞬間この流速の津波に突然衝撃的にぶつかったときは、この数倍かそれ以上の衝撃力を受けます。



日本とインドネシアでは家の構造が違うと思うが、同じような津波が今日本で起きた時、被害はどのように異なるのだろうか。(1年・文Ⅲ)
【都司先生のコメント】
インドネシアにBajo(バジョー)族という、海面居住の人たちがいます。強風がほとんど吹かず、風波が来ないインドネシアの列島の北側の海岸で海岸に近い水深1m以下の浅いところに、木の杭を立てて柱にし、海の水面上に床板を貼って家を造って住んでいる人々です。1992年のフローレス島の津波では、80人以上が津波で死んだMaumere市のウリン地区はBajo族の海面居住地区でしたがそこでは津波による海面上昇はわずかに1~1.5mほどしかありませんでした。
また、低い砂丘の海岸の上に高床式の住居を建てて住んでいる、パプア島の住民は、上の家の部分だけ完全に流されて後には傾いた柱の列だけ残ったという光景もありました。
日本では、少なくとも床のコンクリート台は地面にしっかり固定されていてこれが流されると言うことは、滅多にありませんが、その上の木造部分が全部津波に持って行かれたと言う例が1993年の北海道南西沖地震の奥尻島で多数見られました。
日本の家屋のほうが若干津波には抵抗力がつよいのですが、4m以上の津波におそわれたら日本もインドネシアも同じ。沿岸集落の家屋はだいたいみながながされてしまいます。



スマトラ島付近で発生した津波によって家が流された区域とあまり流されていない区域が分離していると述べられていた。ならば今回家が流された区域はもう家を建てない(居住禁止区域にする)などの制限はされないのか。流出限界を利用すれば被害を最小限に抑えることができるのではないか。(2年・文Ⅲ)
【都司先生のコメント】
ハワイ列島の最大の島、ハワイ島の最大の町、ヒロでは1946年をはじめとして幾たびも津波に襲われたことから、海岸から1キロを居住禁止の緑地帯としました。が、こんなことは、先祖伝来古来よりほとんど居住者がいなかった、しかも背後に土地が有り余っているハワイだから出来たこと。インドネシアは日本と同じく人口密度の高い、土地をムダには使えない国です。土地は又その場所の先祖伝来のもの。
いま、今回のような大きな津波が何年に一度の出来事であったかを、珊瑚隆起の痕跡などから調査されていますが、どうも300年、400年に一度の出来事らしい。切ない話ですが300年に一度の災害に備えて、そこに住むな、というのはなかなかこんなんでしょう。
日本でも、岩手県の海岸で、昭和8年の三陸津波で3000人あまりの人が死に、多くの集落が全戸流失、住民の過半数死亡の被害を被りました。このあと、高所へ集落全体が移転する、ことが計画され、実行に移されました。大船渡市綾里集落など一部では成功していますが毎日の生活手段である漁業の継続に不便であること、等を理由に何年か後には再び元の場所に戻ってしまった例も多数あります。
三重県鳥羽市大津の集落は、1498年の明応津波に壊滅し、高所移転して500年を経過し1707年の宝永地震津波、1854年の安政東海地震津波、昭和19年(1944)東南海地震の津波にほとんど被害を出さずにやり過ごしました。こういう集落もあります。



昔水面であった所が震度が大きくなる傾向があることに驚いたと同時に、理由が知りたくなった。(1年・理Ⅰ)
【都司先生のコメント】
弥生時代の大阪平野の河内湖、東京では東京駅と皇居の間の日比谷公園や大手町は太田道灌が江戸城を築く前は、日比谷の入り江という東京湾最奥部の内湾でした。このような場所が現在陸地となっている場合には、(1)長年川が運んできた堆積物が溜って陸化した場合、(2)人工的に埋めた場合、の2つの場合があります。(1)の場合、その場所に現在たまっている地層の中には、地震に強い岩や砂礫はほとんどなく、お味噌のような粒の細かい粘土やシルトが厚く堆積して、雨水に由来する水分が多く、同じ揺れが加わっても揺れが強く表れます。人工的に埋めた土地であっても、埋めるのに用いるのは、人工的に作った水路の残土や、浚渫の土である場合には同じように地震の揺れが強く表れます。
おなじ、人工地盤でも神戸市のポートアイランドのように六甲算から花崗岩質の堅い岩石を意識的に用いたことろでは、大きな震度にはなりません。1995年の兵庫県南部地震のときにはポートアイランドはむしろ助かりました。ただし、その場合にも液状化が烈しく起きました。
ものここに、家の土台にコンクリートのべた基礎がない、柱が一点集中的に地面に刺さったような家屋だったら、液状化の被害をつよく受けたでしょう。



巨大地震の発生時期が集中していることについて、一旦巨大地震が発生することで地殻運動が活性化するという考え方はできないのだろうか。
安政地震と宝永地震では地震の分布地域には差があるものの、震度がそれほど違うとはいえないように感じた。ずれの量や津波の高さと比べて震度の差が小さかったのはなぜだろう。(2年・文Ⅰ)
【都司先生のコメント】
巨大地震が発生したあと数年以内に、局地的な内陸地震が頻繁に発生すると言うことはあり得ます。
また事実ありました。たとえば、安政元年(1854)の北安政東海地震ののち、安政2年(1855)の江戸地震が起き安政5年(1858)に北陸地方で飛越地震、同年に大町地震が起きています。1923年の関東震災の8年後に西埼玉地震(1931)が起き、1944年の東南海地震の2ヶ月後に三河地震がおきたのもこの例でしょう。
しかしこれらの場合、M8クラスの巨大地震のあと起きた内陸地震はすべてマグニチュードにして1程度以上小さい地震が、巨大地震の明らかな「ナワバリ」のなかか周辺で起きた者が大部分です。ところが私が授業で取り上げた、たとえば1957年のアリューシャン地震の3年後の1960年チリ地震の例など、距離が遠すぎてとうてい力学的に影響し合うとは考えられない場所で起きています。あきらかに「親分・子分」の考え方で説明は出来ません。



地震研究と日本史研究の組み合わせという考え方は、非常に興味深かった。これこそ、学問のあるべき姿だと思います。(2年・文Ⅲ)
【都司先生のコメント】
ありがとう。実は、日本史と天文学、日本史と火山学も協力関係がいいのです。
けど、日本史と台風研究、日本史と医学(疫病流行)研究はダメだなあ。
やったらいいのに。安政3年(1858)の史上最大の台風、安政5年のコレラの流行誰か始めてくださいませんか?博士の2人や3人、すぐ製造できますよ。



地球にとってみれば、津波によって動植物が死ぬことは「被害」ではなく「自然現象」の一つに過ぎず、人間の抵抗は、海と陸のつながりを失わせるような自然を破壊する行為となってしまうのかな・・・と思った。知識を持って「防ぐ」のではなく、「安全に逃げる」ことを考えるべきなのかもしれないなと思った。(2年・理Ⅰ)


先生がゲリラの話をされていたので思い出したのですが、かつて独立問題で内戦があったのが、この地震・津波によって対立していた両者が復興に向けて互いに協力し、結果的に独立問題が平和解決したという報道を見ました。このことは、冒頭に加藤先生がおっしゃっていた「地震が、災害であるという点以外の面も頭においてほしい」ということに、もしかしてつながるのではと思いました。(1年・理Ⅰ)
【都司先生のコメント】
1854年安政東海地震の津波で、900軒の伊豆下田の町は34軒を残して後は全部の家が流されました。1854年の下田と言えば!日米和親条約で函館と並んで新たに開港場となったたった2個所の1つ。当時、下田には英米の領事館があり、ロシアの軍艦ディアナ号が国境交渉に碇泊しており、江戸幕府側の外交応接係もここにずらりと顔をそろえておりました。
そこへ津波!ロシアの軍艦ディアナ号は大破して、数日後に沈没しました。ロシアの乗組員は船のないまま西伊豆戸田にとどまります。ここでロシア人によって、現地の船大工が「へだ号」という我が国初の西洋式船舶を完成し、ロシア人たちは是に載って国に帰って行きます。これによって日本人は西洋式船の製造技術を身につけました。
明治になって、ディアナ号の艦長プーチャチン提督の娘は、わざわざ戸田を訪れ、村人に礼を述べに来ます。いらい、平成の現在まで、ロシアから新たに大使が東京に赴任すると、そのロシア大使はかならず戸田村に立ち寄る習慣が出来たのです。