EALAI:東京大学/東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ | EALAI 2016年度Sセメスターテーマ講義 | アジアにおける「植民地化」と「脱植民地化」 転換と変容のプロセス

月曜日4限(14:55〜16:40)
教室 514教室 K212(KOMCEE EAST 2階) K011(KOMCEE EAST 地下)
担当教員:岩月 純一
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

questionnaire

2016.07.11(月)討論とまとめ

現在、韓国語を学習しながらつくづく感じるのは、漢字由来の言葉が非常にやわらかく現代韓国語に溶け込んでおり、日本語話者の感覚では非常にかたくるしい響きの漢熟語までも、非常に慣用的・一般的な表現として使用されているということだ。これは、国漢文のなごりとして見ることができるのではないか。語彙レベルにおいては日本語より韓国語の方が漢字由来のものの割合が多い反面、見た目では日本語の方に漢字が残り、現代韓国語に漢字はもうないという現状は非常に興味深いと思う。
(文II・2年生)


ベトナムのリテラシーの話を再び聞けてよかったです。漢字・ローマ字・チュノム・フランス語が互いに関係性を持ち、ベトナムの制度(科拳制度)と結びついて、その関係を変化させていくという話はダイナミックであり、政治と文化のつながりを大いに感じました。本講義を通して考えたことは「植民地」というと「弾圧」「抵抗」「悲劇」等というセンセーショナルかつナショナリズム的な要素が前面に出てしまう傾向がありますが、もちろんそれらのことは善意と正義をもってふまえつつ、近代における政治と文化の直接的な関連性をドラスティックに表現している装置であるように感じました。そして脱植民地化の経緯も政治的変化は文化的要素をも逆行、あるいは変化させうるのかという問題を提起し、私達に興味深い考察を与えてくれました。一つ、物足りない点があるとしたら、アジア文化の発信源と目される中華(当時の清)が半植民地化された際にいかなる文化的要素の操作・変容を議題とした講義がなかったことです。是非とも次回は中華にも目を向け手を伸ばして頂きたいと考えております。
(文II・2年生)


朝鮮の書記史は、併合以前は全て漢文、併合以降は国漢文に統一されていると思っていたが、併合中にも国文で書かれている新聞があった事におどろいた。また、国文が浸透したのがかなり最近である事も興味深かった。個人的には、朝鮮半島の人々が漢字を捨ててしまったのは、東アジアの文化の共通性の一つを捨ててしまったようで残念に感じる。加えて、漢字を(漢語として音は残っているとはいえ)学ぶ事は大変だと思うので、直近の史資料でも中々読めないのは不便そうだと思った。
(文III・2年生)


条約に基づいて追った朝鮮の脱植民地化について、文体の変化を追うことで理解を深めることができた。特に、「訓民正音」が世宗の意図がうまく実現されなかったり、ハングルのみの使用がなかなか広まらなかったように、政治的意図に必ずしも沿うとはかぎらない社会の変容が見られておもしろい。ベトナムの複数のリテラシーについても、それぞれが対立しているわけではなく、ホーチミンなど変動の時代に生まれた世代の存在によってその前後の世代をつなげたという考えは、彼らの学歴が社会の変動をありのまま表現しているようで大変興味深く思った。
(文III・2年生)


ホーチミンの手稿などを史料としてベトナムのリテラシーの重層性を見ようとする試みは、まさしく歴史学的用法に基づいて史料に接する態度であり、興味深く感じました。朝鮮では、ハングルと漢字の交わりの中で同様のリテラシーの交差が見られるようで、朝鮮についての講義回では専ら政治史的な視覚のみによっていたように感じましたが、今回文化的な切り口を垣間見ることができたため、面白かったです。
(文III・2年生)


朝鮮、ベトナムにおける文字使用の変化についての講義であったが、どちらの地域も漢字圏に含まれていたという点から非常に興味深い話題であった。自分は文字は国家・地域の支配者が統治を行うための道議として使われていたものだと認識していたが、これに植民地化、脱植民地化という過程が加わるとかなり複雑な理解を求められるのではないかというのが単純な感想である。朝鮮は、日本という同じく感じ文化圏に含まれた国に植民地化されたため、文字の変化による社会的な変動は少ないだろうと思っていたが、ベトナムにおいてもクオックグーやフランス語の流入、ベトナム語のローマ字表記も想像ほど社会に大きな衝撃を与えていないという点は驚きである。文字使用において国家の支配者―被支配者の関係を植民地化した国―植民地化された国という構造に置き換えて理解することは、今後更なる考察が求められると思う。
(文III・1年生)