歌は言葉としての情報を持っているが、同時に音楽としての要素も持っている。「歌=言葉+音楽」なのだろうか。言葉だけのもの、つまり詩も和歌のように歌と呼ぶし、楽器による声のない音楽も歌と呼ぶことができるので、単純な概念ではないことがわかる。「うたう」ことは許されるのか?至高なるものに近づこうとは思わずとも、その一端に触れ、感じたいと願う者にとっては、それぞれが心に任せて言葉と音楽とを紡いでゆけば、必ずや望みをかなえる一助となるのであろう。(文Ⅲ・1年)
かつて「うた」が人と神をつなぐものとして、愛に支えられた連帯を形作るものであったが、それが個人化した近代において成り立ちうるかというのが主題であったと理解したが、逆に明示的な共同体が崩壊する中で、「うた」の役割はむしろ大きくなっているということはありえるのではないか。(文Ⅰ・1年)
うたうという行為が共同体の要素を含むことは、今まであまり意識はしてきませんでしたが、今回の講義を受けて再確認しました。そして、同じ言葉でありながら、歌うことも詩の朗読も単に話すということとは違う特別な雰囲気をもつものです。「うたう」とは宗教的な、神聖な文化に結実することは分かりますが、僕が講義の中でふと思い出したのは、小林先生の話でも出てきましたが、フラメンコです。この生々しい程に激しい踊りも同じ「うたう」なのだとすると、人間というのは分からないものだなと思いました。また、他の動詞、行為との連関し、この場合では「おどる」と「うたう」も感じられる点も興味深いです。(文Ⅰ・1年)
「表現の自由」、「至高なるものの相違」について、私たちは自分と異なる文化と出会ったときから考えるべきであったと思うのですが、あのような事件が起こってから注目され、「現代の問題」として扱われていることに違和感を覚えます。(文Ⅲ・2年)