EALAI:東京大学/東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ | EALAI 冬学期テーマ講義 | グローバル化時代の現代思想—東アジアから

木曜日4限(14:50~16:20)
教室:12号館 1214教室
担当教員:石井剛
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

questionnaire

2014.10.16(木)「書く/隠れる」

文がいわゆる文章についてだとしたら、理系における文、すなわち数学や物理で使われるような文字の集合、式は行なのだろうか?そういったものは、心の中に残しておくことが困難であり、また別の性質を持つ。もしかしたら人間の心ではなく、物や世の中の様々な自然の中にあるものなのかもしれない。そう考えると、これもまた紙面上になくなったとしても、世の中には有効な物として残り得るのかもしれない。(理Ⅰ・3年)

文字に頼って書物を隠した場合と、文字に頼らず記憶を伝承する場合では、具体的に動作が開いていくのか。ここを考えることでインターネット時代の文についてのヒントも得られるのかもしれないと思いました。現代は経古文学と経今文学を同時に行っているように感じます。膨大なデータベースに隠されている文字と、リアルタイムで人から人へと伝わっていく言葉が絡み合っているということです。(文Ⅰ・2年)

「ペンは剣よりも強し」という言葉があるが、ペン(書)は「強い」とか「弱い」で語られるべきものなのか。もっとも我々が恐れるべきことは、ペン(書)、つまり自分の内にあるものを自分の内にとどめるということであるかもしれない。文という字が、絡まっているイメージを連想させるものであるが、知は外に出て様々な摩擦の中で発達していくものであるからである。(文Ⅱ・2年)

「書く」ことには他人が世界のためではなく、自分のためのだけに行われるという考え方もできる。たとえば自らの思考を整理し、それを自分が忘れないために記録するという「書く」も存在しうる。このような「書く」が「隠れる」という行為により近いのではないかと感じるし、ある意味、その文の中で自由であることで「戦う」ということにもなりえるのではないだろうか。(文Ⅲ・2年)

なぜ真理は言葉によって書物にかかれることはできないというのであろうか。なぜ知恵の外見にとどまってしまうのだろうか。もしかすると、文字が結局のところ、人間の生み出した発明品にすぎないからかもしれない。人間の生み出したものにあ揺れる世界を生きるだけなら、文字は大いに役に立つが、真理を追い求めようとするとき大切になってくるのは道具ではなく生身の人間ということなのであろうか。(文Ⅰ・1年)

インターネット環境においては「文」は力を失ってしまうのではないだろうか。あまりに莫大な数がめまぐるしく駆け抜けていくなかで、人々の記憶の中にとどまる可能性はないに等しい。プラトンが、書かれた言葉は死んでいると表現しているが、数千年も経過した現代にもこうした考えが当てはまるように思われ、実に興味深い。(文Ⅰ・1年)