「日本哲学が形容矛盾」であるという橋本峰雄の言説ははっとさせられました。哲学が普遍性を求めるのに対し、なぜそこに日本という特殊性を付加するのか。日本哲学について学びなおしてみようという気持ちにさせられました。(文Ⅲ・3年)
私は、「ひらく」と聞くとまず物理的な開くというものを想像する。開放性があるというのはどちらかというと開かれているというようなイメージだが、物理的意味ではないひらくという視点も面白いと思った。日本がなぜ日本であり、フランスがなぜフランスなのか、頭大がなぜ東大なのかという問いは、私は連続性に答えがあると思う。つまり、ある事実は事実として存在するためには、過去から現在、そして未来に至るまで連続してそうであるということで、それをあらわす、認識させる根源になっているように思う。(文Ⅱ・2年)
日本の本質とは何か。授業では、文化本質主義、比較、トランスカルチュラルラルを示していただいたが、それでも、日本と言う野茂は捉えにくいもののように思われた。たとえば宗教を取ってみれば、神道や仏教、キリスト教が当たり前のように共存し、各々の行事を疑問も持たずに執り行っているのは日本の特異的な性質だと思う。このようにみると、日本はすでに十分開放的で、あらゆる外界のものの中から会いそうなものをより合うよう作り変えて取り込んでいくという本質があるようにも思った。(理Ⅰ・2年)