EALAI:東京大学/東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ | EALAI 冬学期テーマ講義 | グローバル化時代の現代思想—東アジアから

木曜日4限(14:50~16:20)
教室:12号館 1214教室
担当教員:石井剛
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

questionnaire

2014.10.30(木)「話す/聞く」

自分の経験に確信するという行為は、自分の中で「完結するもの」でなく、他者との交流の中で成立するが、それは人とのコミュニケーションが一般的にとらえられている以上の意味を持っているということを示していると感じた。(文Ⅱ・2年)

一般的には「会話」とは話す側について着目することが多いように思える。言論の自由といっても話すことに重点を置いているし、「会話が下手」な人は話が上手でない人のことをいう場合が多い気がする。会話は話すことを聞くことによって成り立つのだと学んだ。(文Ⅱ・1年)

自由というのは難しいなというのが素直な感想です。完全に自由でなくてもいいと思っています。これは、自閉症や薬物依存と直接関係していないのですけれど、非常に場や流れ、役割、ルールというものはあり、自分が本当に言いたいことの中から、そうした制約に沿うものを出すわけで、場に合うことをしなくちゃというのがまず第一にあるわけではない場合があると思います。そういう意味で、不自由と自分が感じなければよい(不自由、自由の概念、基準を知った上で)と思います。

「誰も言いたいことを言えてない」という言葉が印象に残りました。この人なら、自分の言いたいことなんでも言えると思ってはいても、その人との関係性であるとか、その場で相手から受け取る反応に応じてしか話すことを選べないのだろうと思うと、不自由だとは思います。その「不自由」と向かい合うのと同時に、「自由」な対話の関係を少しずつでも築けていけたらよいのですが。(文Ⅲ・1年)

人は常に「友達」、「親子」などの役割を背負い生きている。ゆえに真のフリートークが達せられることはない。それでよいと思う。理性を働かせて己の役割をはたしてこそ人間である。理性の範囲内での限定的な自由を追い求めて行こうと思った。(文Ⅱ・1年)