哲学の果たすべき役割として思い浮かぶのは、やはり形而上学として現在の判断、理性を規定する。形而上的存在体制の考察であるように思える。ドゥルーズの生成の哲学については全く知識がないが、生成前の始原があるとすれば、それは想像的なものであり、理論の根拠になるのかは詳しく考えていきたいと思った。(理Ⅱ・4年)
ヘーゲルの哲学において、「東洋」の存在が外部的に知の欲望を持たぬ者として捉えられているのは非常に意外でした。哲学というものが、知の欲望との関わりを探り続けていたことが分かり大変勉強になりました。また、その知の欲望との関わりの中で、フロイトの精神分析がある種のターニングポイントとしての役割を果たしていたのも、新しい事例としての「転移」を発見していたというのも新鮮でした。(文Ⅲ・3年)
「知の商業化」について、教育が商品となり、子供が消費者マインドを持つという言い方は今の「受験ブーム」にもつながるように感じました。教育は受けている時点では価値が分からない(分かりずらい)商品であるため、それによって何か「知」以外のものを目的とする傾向が生まれるのかと思いました。ということは、小中学生に哲学を触れさせるという試みは、知の欲望の低減に対して一つの策となるのかもしれません(それがよいかどうかは別として)。(文Ⅰ・2年)
フロイトの「知の欲望」の子供における芽生えでは、兄弟の登場という危機が原因とされているということでしたが、兄弟が登場しない子供が多くなった現代において通用する議論なのでしょうか。また、ラカンの議論において、子供は「母の現前」を欲望するも、「父の現前」を欲望しないものとされているのはなぜなのでしょうか。(文Ⅲ・2年)
ラカンの話を聞いて、幼児期に親が子供につきっきりになってしまうことが、幼児が持つべき知の欲望を手に入れるための機会を奪っており、そのことも知の欲望が低減している一因なのではないかと考えました。また、このような「知の低減」が進む社会においては、知を探求することを前提としている大学の存在というのも危うくなるのではないかと思いました。(文Ⅱ・1年)