接触によって自己の側面が表出することに関して、自己に内在する他者性を仮定することで、接触という行為の性質をさらに知る糸口のようなものを感じた。(理Ⅰ・3年)
情報化、グローバル化が進行していく中で、「距離」が持つ、SNSでは補うことのできないつながりという特権や、それによって逆説的に生まれる距離によるつながりの断絶に、私たちは鈍感になっているのではないかと思いました。(文Ⅰ・1年)
復興を盛んに訴える広告などに日頃から違和感を感じてきましたが、その理由が距離の操作、動きようがない者に対する収奪であると納得しました。接触というのは避けて通れないものでありながら、常に他者であることから生じる痛みを伴うものであるので、慎重に考えねばならない行為であると思いました。(文Ⅰ・1年)
私は性別による触れることへの感覚の違いに興味を持っていました。というのは、女性同士の場合、抱き合い、手を繋いでいたとしても「友人」というくくりで、一般的に許容されるように思いますが、男性同士が手を繋いだり抱き合ったりしているとすぐにいぶかしげな目を向けられるような印象があります。この講義を聞いて、女性には明確な外部と内部の線引きが存在しないが、男性は内部が自己として確立しているという考えがいまだに残っている部分なのではないかと考えました。(文Ⅲ・1年)
他者との関係には痛み(自分への抵抗、自分に無理をすることなども含む)を伴う(と日々感じている人もいる)が、それでも人は触れ続ける(ことを常に望む)ようだ。それは触れることで他者を介して「わたし」を感じなければ、人は「わたし」を自分自身で感じることはできないからではないか。独り暮らしをしていると、いや、家族と暮らしていても、他者を触れる経験はなかなか日頃はないものである。(文Ⅲ・1年)