EALAI:東京大学/東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ | EALAI 冬学期テーマ講義 | グローバル化時代の現代思想—東アジアから

木曜日4限(14:50~16:20)
教室:12号館 1214教室
担当教員:石井剛
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

questionnaire

2014.12.04(木)「わすれる」

国家のシステムの中にあるように見えながら、国家、政治、あるいはシステムという存在の一点に目を引き付けられることなく、目を泳がせることができる。こういうようなあり方を「忘れる」からイメージすることができた。…「忘れる」は、なにかを失うことよりも、「忘れ続ける」、「ひとが覚えていることに目を固定しない」ことにように思えた。(理Ⅱ・4年)

荘子において、孔子を登場させるパロディを用いているというのが非常に面白かったのですが、自説の正しさを主張するために都合よく敵を使うと、自分が小さく見えるというようなことがあると思うのですが、そういった批判は生まれなかったのでしょうか。(文Ⅲ・2年)

(授業を受けてみて気がついたのは)「わすれる」が消極的な言葉だということ。前回の「待つ/耐える」では、むしろ積極的な意志でこれらの選択をするところがあったが、身をゆだねるという説明や、論語のたとえを聞いてみても、この「わすれる」は、それこそ死に近づく、生から遠ざかる、という、最も生きる上で消極的な選択のようにも思われ、そこにひきつけられる気がする。(理Ⅰ・2年)

倫理的側面から忘れないこと、風化させないことを常に要請される現代社会は、息苦しく出口のないものだから、「忘れる」という逃げ道も大事なのかなと思った。また、変わるためには考えない、すなわち忘れることが必要だという考えも新鮮だった。(文Ⅰ・1年)

「自分は社会に出るほど立派ではないので身を引いておく」という「守拙と自足」の内容は、昨今の「草食系男子」に通じるところがあるように感じた。明・清の時代にも、現代と同じような「逃げ場のないグローバル感」はあったのだと思う。(文Ⅰ・1年)

忘れないという一見単純なことが、責任感や規範意識に捕らわれていることである、ということに驚きがあった。逃げるために忘れるのは簡単なことであるが、自己を捉えなおすのは難しい。ただ忘れるだけに終わらないために、やはり知が必要なのではないか。(文Ⅲ・1年)