EALAI:東京大学/東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ | EALAI 冬学期テーマ講義 | グローバル化時代の現代思想—東アジアから

木曜日4限(14:50~16:20)
教室:12号館 1214教室
担当教員:石井剛
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

questionnaire

2014.10.23(木)「わける」

「合理的配慮」という言葉も、実際差別とどう異なるのかというのは意外と難しい話ではないかと思います。先のオリンピック、パラリンピックにも共通しますが、スポーツをするにも社会生活をするにも常に相手との「差」を意識する必要があります。ここで意識した「差」に対して、どう対応するかどうかで法律で禁止される差別に当たったり、感謝されるような配慮になったりが変わるのは面白いと感じました。現代思想・哲学が立法にも深くかかわっているということは、法学部生としてもとても面白かったです。(文Ⅰ・2年)

障害者に対しては、その人が障害者ということを考えるだけで、それはもうdiscrimination(差別)なのではないかと不安になることもあった。しかし、障害者への「配慮」は、「配分」の行為に他ならないという新たな知見が得られ、納得いくとともに、自分の考えに自信が持てるようになった気がする。(文Ⅲ・2年)

私が最初に「わけないためにわける」という言葉を聞いたとき、思い浮かんだ意味は「差別しないために(定説的にも)差別する」ということでした。つまり社会的障壁による受難を乗り越えるために、相手が自分とは立場の違う弱者であることを自覚し、要するにその相手と自分とを差別するという意味に私は思えました。追及すべきことは、こうした相手がより弱い立場にあるということを思わずとも、対等に生活していくことの出来る社会、環境、もしくは人間の意識改革ではないでしょうか。(文Ⅰ・1年)

わけないためにわけるというのは当然そのとおりだと思いました。しかし、障害をもった人々にとって過剰な配慮は迷惑かつ失礼にあたると思うので、現実に実践をする上ではその線引きが重要だろうと感じました。(文Ⅱ・1年)

社会的障壁を取り除くという考え方は間違っていると思う。障碍者たちはある分野において「できない」ことを持つためにかえって他の分野で常人より優れた能力を発揮できるので、一方的に助けているというよりも、相互に助け合っているという考えを持つべきだと考える。(文Ⅲ・1年)