EALAI:東京大学/東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ | EALAI 冬学期テーマ講義 | グローバル化時代の現代思想—東アジアから

木曜日4限(14:50~16:20)
教室:12号館 1214教室
担当教員:石井剛
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

questionnaire

2014.11.20(木)「待つ/耐える」

能動・受動というキーワードが出てきましたが、もしかすると「能動・受動」という言葉では今回のテーマについて上手く語ることができないのではないでしょうか。また、「受動的でしかない行為」が存在しないのではないか?とも考えました。能動的という言葉は対象に働きかけることを、受動的とは作用を及ぼされたり自分の意志でなく他の働きかけで行動することを意味しますが、人間が何かをするということは、何らかの働きかけをすることだと思うので、全ての行為に受動性と能動性が含まれるということにならないでしょうか。(文Ⅲ・2年)

ドゥルーズが言う「本当に変わるためには待たねばならない」ということから、「果報は寝て待て」ということわざを思い出しました。待つ能動性への危険性に言及されていましたが、待ったとしても、到来した何かを受け容れなければ変わることはできないのだから、受け容れる事典で能動性が働いているのでは?と思いました。(文Ⅲ・1年)

「待つ」ことへの能動性について次のように考えた。「待つ」という行為が能動的であるためには、待つための「何か」しらないことを知ることへの期待を抱いている。主体の生成変化ということも関わるが、その時私はその「何か」にやはり私の知らないことを期待しているはずである。だから末という行為の根源に、無知への自覚や知への渇望があるのではないか。知への渇望こそ、保守主義を破る原動力になると思う。(文Ⅲ・1年)

私は小学生のころ、両親は共働きだったため、家の鍵を忘れて、学校に行くと、家の前まで帰ってきてもずっと親の帰りを待たなくてはならなかった。それはとても絶望的で空虚な時間に思えた。そこには「待つ」ことの中には何らか充実した意義を見出せなかった。ここで「待つことの苦痛」についてもっと考えるべきだと思う。(文Ⅲ・1年)

「待つ」ということ自体が、選択された行動であるときに限って能動性が存在するのではないかと思いました。例えば、投獄され出所を待つ囚人に能動性はあるのでしょうか。配布されたプリントの事例はいずれも「聞くこと、見ること」を選択しています。カフカの「掟の門前」やベケットの「ゴドーを待ちながら」でも、彼らはあえて待つことを選んでいます。そこが興味深いなと感じました。(文Ⅰ・2年)