EALAI:東京大学/東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ | EALAI 冬学期テーマ講義 | グローバル化時代の現代思想—東アジアから

木曜日4限(14:50~16:20)
教室:12号館 1214教室
担当教員:石井剛
東京大学 東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ

questionnaire

2014.12.18(木)「おどる」

舞うという言葉は優雅さを感じさせることころが魅力であり、踊りはエネルギッシュなところが魅力だと思う。舞うは天国、踊るは地獄といったら言い過ぎだろうか。個人的には、地獄は人の欲が漂うエネルギッシュな空間だと思っているので、ネガティブな意味は感じていない。踊りをネガティブなものだと言いたいわけではない。ただ、舞うと踊るは全く違う魅力を持った異なる概念であり、ダンスと一つにまとめるのではなく、二つの動詞によって分けるのは意義のあることだと認めたい。(理Ⅰ・3年)

(「踊りとは命がけで突き立った死体である」という言葉について)踊る主体の人間的美しさ(ギリシアの彫刻のような)、「生」の世界の価値観による、「生きているものの美しさ」とは反対の、「死」の世界、なにかおそろしい、不浄の、しかし「俗」ではない「聖」の美しさこそが、真に美しいということを語っているのかなと思いました。(文Ⅲ・2年)

同じ欲望から発せられたダンスであっても、天を求める、優雅で申請である舞いと、地面を踏みならし、情熱的な踊りと二通りに派生したというのは不思議でなりません。この二種類のダンスを規定するものが、風土・文化なのだとしたら、本当に原始的な形態としてのダンスとはどのようなものだったのでしょうか。その形こそが命がけで突き立った死体なのでしょうか。命をかけていながらもダンスしているのは死体なので、その命とは何なのでしょうか。(文Ⅰ・1年)

屍体には感情や意志がありません。また、力も持ちません。屍体は死んでいるのに、「命がけ」とあります。つまり、踊ることとは、自分の感情や意志を無にして(=死ぬ)自分でないものになろうと、命がけで生まれ変わろうとすることを指しているのではないかと思いました。生まれ変わることは、力のない赤子になることと似ているので、「屍体」にはその意味も含まれているのではないかと思います。(文Ⅲ・1年)

北東アジアから中国南部にかけてシャーマンとか巫女と呼ばれる存在がいて、彼らは神と通じるために舞い踊る。シャーマンは「天」とつながることを指向するから舞うのではないか、そして、天をつながるためには自我を振り払って舞い狂うこと、その忘我の境地にdanseの原点であるところの愉悦があるのではないかと、今日の授業を聞いて考えた。(文Ⅲ・1年)