変容する名勝:東アジアから見た瀟湘八景 | Date:January 21, 2008

授業の内容と実際に瀟湘八景を見たことを踏まえて、「見る」ことと「解釈」することの関係について論じてください。

 


::Comments [13]

たいし said :

瀟湘八景は八つの特徴的な風景の切り取りが八つ一セットになった連作の総称である。
北宋風だったり南宋風だったり、はたまた、それが江南の風景ですらなく、富士山を描いたと思われる連作であっても八つの特徴的な風景が備わっていればそれは瀟湘八景である。
西洋絵画においてもイコノロジーというものがあるが(マグダラのマリアは髑髏を持ってるだとか)、東洋の絵画においてもそれとほとんど同じものがあると知ってとても興味深かった。
先生のおっしゃっていたように、絵に記号的な表象が書かれているということは、私たち鑑賞者はそれを解読する能力を持つことを求められているのだ。
絵画をただ見るだけ、この色がいいとかこの線がいいとかってゆうのはそれはもちろんすばらしいことだが、やはりそれだけで終わらせてしまうのはもったいない。
画家がイコンになるようなものをもつ主題を選ぶというのは当然、それによって伝えたいものがあるからこそである。これから真摯に絵画と向きあうために一鑑賞者として更に精進して、隠れたメッセージを解読していきたいと思う。

M.O. said :

前回の授業の際にも感じたことですが、ただ対象を視覚的に捉えて評価すること(例えば、色彩表現や遠近感の表現に注目すること)だけでは、絵画の理解という点で一面的であることに気づきました。絵画を鑑賞するということは、図像の成立した背景や、描かれた対象の寓意などの知識を踏まえた上で、画家・および作品成立当時の社会が、そこに何を企図し、あるいは何を求めたか、ということを理解することまでも含むのだと思いました。

Mitsu said :

「見る」というのは、単にハンディキャップのない人なら誰でもできる生理的行為であり、
「解釈する」というのは、知識を持ってみることでその裏にあるさまざまな意図やさらには
「美」を読み取る知的営為なのだと思います。
絵画について言えば、私はどちらかというと西洋絵画のほうが付き合いが長い人間なので、
西洋絵画に投射して論じることとしますが、たとえば、ルネサンス絵画を見たとします。
ルネサンス絵画は誰の目にも見目美しいもので、これが半千年紀いい状態で保存されてきた
ということに感心します。しかし、本当に美しい絵の具(ラピスラズリ等宝石を使っている場合も
ありますが)は美しいだけなのでしょうか。実際、ルネサンス絵画にはかなりの革新的要素が
含まれています。そのころ、絵画のほとんどは大聖堂に飾るための宗教画でした。そして、
キリストは神であるため(キリストの実在と神性を論じ始めると終わらなくなるので割愛します)、
絵画のうちのたとえば「受胎告知」におけるマリアや「東方三博士の礼拝」におけるキリストに
歯のようなある種俗っぽいものを書いてはならないことになっていました。というより、当時は
想像以上に契約制度が確立していたので、そんなものを書いて代金を支払ってもらえなくなる
ことを危惧して、画家たちはなかなか教会の意図に背くことをしようとはしませんでした。
しかし、ルネサンスの画家たちはそれをやってのけたのです。たとえばジョットはキリストに
歯を書き入れたりしていたことが近年のX線による非破壊検査等により明らかになってきて
います。
このように、絵画に潜む歴史や意図を汲み取ることこそ、「解釈」なのではないでしょうか。

また、味覚についても同じことが言えると思います。美味しいものは、その文化の中にいる誰が
食べても美味しいです。しかし、その美味しさの裏にはどのような調理法で処理するから美味しいとか
いろんなことが含まれているはずです。それらを知ることでまた違った美味しさが引き出せることも
あるのではないでしょうか。

以上、最後は少し論点がずれた気もしますが、「見る」と「解釈する」についての私論です。

recoba said :

最初見た時はただの古い絵だなとしか思わなくてさっぱり意味不明だったが、瀟湘八景の基本を知ると見方が変わってきた。 ただ見ただけでは何も分からない。時代背景などを含めた知識が解釈には必要だ。だが知識だけでも何も分からない。実際に見てみることも解釈には不可欠である。 

かなこ said :

実を言うと、私ははあまり絵を見るのが好きではありませんでした。
どんな絵が素晴らしいのか・・・
残念ながらたぶん聞かれても分からないと思います。

でも今回の授業で先生に絵の背景知識などを聞きながら解釈していくととても絵を楽しむことができました。

やはり絵を解釈するというのは、絵の背景知識(作者のこと、その時代のこと)などをしっかり勉強したうえで見ることなのではないかなと思いました。

みずき said :

今回実際に絵を見せていただいて、素直にきれいだなと思いました。
絵の中の雨や夜の雰囲気に心を惹かれたし、歴史の重みも感じました。
でもいろいろな背景を聞いてから見てみるとやっぱり何も知らないで見るのとは全然違うと思いました。
その絵が誰によって、どのような方法で、どんな時代に描かれたのかという知識を得てから絵を見る、つまり絵を解釈しようとすれば、もっと深く絵を楽しめると思います。
でも、最初に絵をただ見たときのインスピレーションも大事だと思います。それがあるからこそ、その絵のことをもっともっと知りたいと思い、解釈につながるのだと思います。

ヨコ said :

瀟湘八景を「見る」ことで分かったのは、絵が細かくて上手で建物があって人がいて・・・という見たまんまの視覚的なことばかり。先生の瀟湘八景の「解釈」で分かったことは、紙に特色があること薄く彩色してあること雨が降ってること、夜と雨の表現は難しく、また八景にそれぞれタイトルがあり、同じように八景が多数の人によって描かれていること・・・など絵の背景のことも知りました。
「解釈」は時代背景や関連する作品を調べて、絵を見ただけじゃ分からないものを絵の中に「見る」ことができるようにすることだと思いました。説明を聞いてからでは絵に対して感じかたがやはり違うので絵画など歴史のある作品を見るときは少し勉強してからでないと、見る価値が激減してもったいないなぁと思いました。

KM said :

正直に言えば瀟湘八景の絵を見た時、素晴らしい絵だとも見ていて面白いとも思わなかった。
唯一雨の表現に関してはその繊細さに心を惹かれたが、全体、特に八景がすべて含まれた絵は一見散漫に見えてしまった。
しかし瀟湘八景のそれぞれのパーツの意味や歴史的変遷を知れば、絵は単なる画面ではなく、知的なパズルに見えてくる。
今までの作品を踏まえた上で、各パーツをどの位置にどのように表現するか。伝統の上に成り立つ題材だからこそ、作者や鑑賞者の知識や感性が試され、「解釈」する能力が問われるのだと感じた。
「見る」ことと「解釈』することの関係で言えば、「見る」ことはすべての絵画鑑賞における入り口であり、その先にある、見た物を自分の中の知識や感性と照らし合わせる行為が「解釈」であるといえるだろう。
現代人の多くはこの「解釈」という作業ができず、絵画鑑賞の入り口に留まってしまっている。絵画を鑑賞するには知識も必要である事を心にとどめ、「解釈」を行えるようになりたいと感じた。

TK said :

私の祖父は水墨画家です。そのためわたしは幼少の頃から水墨画に親しんできました。
私は水墨画の冷涼とした雰囲気が好きですが、それだけでは見る域を出ることはできないでしょう。見ることと解釈することとは大きく異なるはずです。
思うに、見ることととは単に感性的に絵を眺めることです。それに対し、解釈とは、一定の前提知識が必要になります。瀟湘八景図の日韓での違いを解釈するためには、南宋北宋の風景を知らなければなりません。そしてこれらの知識を前提し、絵の細部を眺め、鑑賞し、意味付ける。少なくともこれを試みることが解釈ではないかと思います。
また、「見る」とは違い、どの知識を前提するかでその結論も変わってくるのが解釈でしょう。

Y*S said :

「見る」ことはただそれを自分の視界に入れればそれで済むことである。
しかし、「解釈」するには、ただ視界に入れるだけではいけない。その対象を見詰めて、自分の頭の中にある様々な知識を連携させることによってその対象の持つ意味について自らの頭で考えることである。つまり、そこでは、その対象に関連する背景知識がなくては、その対象の持つ意味について考えられないということになる。
実際、今回見させていただいた瀟湘八景にしても、ただ見ただけでは「あぁ、すこし墨汁だけじゃなくて赤茶っぽい色も入ってるんだなぁ」とか、そういった単純な色彩などに関する感想しか出てこず、その色を入れることでどのような意味を持つようになるかとか、そういったことは全く分からない、つまり、解釈はできないのである。

Tjutju said :

絵画を見るとき、画家の意図した物を「見る」為には画家——あるいは意図された鑑賞者——と同じ前提知識を持たねばならない。瀟湘八景の様にその前提知識が絵画が描かれた環境において当然の物である程そうである。当然の事は往々にして省略されるからだ。そういった知識を以て「解釈」しなければ、絵画の本来の意図から言えば「視れども見えず」ということになるだろう。
しかし知識を得ようとしたり解釈したりすることに熱中して絵画その物を忘れては本末転倒だ。他の人はどうか知らないが、自分は展覧会に行った時よく実物より説明書きの方に気を取られそうになる。知識を得た上で、もう一度絵を「見る」事で自分の辿り着いた内容を体感せねばならない。「解釈する」のもそもそもは絵画を楽しむ為なのだから。
という事で「解釈」しながら、「見る」事が大事だと結論づけたい。

sn said :

「解釈」することは、「見る」ことの発展型とも言えるのではないだろうか。「見る」ことではその場で視覚的に得られる情報のみから感じたり考えたりするのに対して、「解釈」することでは視覚的な情報に加えてそれまでに積み重ねてきた知識や経験を用いてより深い考察が可能となる。
瀟湘八景が何を描いたものか知ることや、同じ瀟湘八景でも南宋画と北宋画の雰囲気の違い、また中国・朝鮮・日本でそれぞれどのように描かれてきたのかを知ってから「見る」と、それはその絵が描かれたときの背景や、それが今ここに飾られるに至るまでの歴史をたどる「解釈」につながっていく。
絵画は「見る」だけでも十分見る人間を満足させてくれる力を持っていることが多いが、「解釈」することができるとまた別のおもしろさが得られると思った。

Y.K. said :

授業を受ける前の私は瀟湘八景を「見て」いるだけでした。しかし授業を受けたことによって「解釈」できるようになりました。そして「解釈」できた方が絵を楽しむことができるようです。
私は「解釈」はただ「見る」こととは全く違う、と思いました。「解釈」するにはその絵についての知識が必要で、その知識に基づいて見るということは、その絵が書かれた時代の人々と同じ視線で見る、ということになります。ただ「見る」ことは、現代に生きる私たちの視線で見るということです。絵を描く人は、見る人がある一定の知識を持っていることを前提にして描いているはずですから、当然現代に生きる私たちもその知識を持っていた方が楽しんで見られるのだと思います。

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